どろーわーず

track08 バスルームで髪を切る100の方法

  1.  開け放した窗から、うるさい蝉の鳴き聲が流れ込んでくる。僕はキャミソール一枚で、部屋の中を轉がり囘る。

    「ううー、暑いー、描けないー」

     夏休みも後半に入つた。しかし今年の暑さは、まだ收まる氣配がない。本當は、アートユース出品用の作品をがんばつて仕上げなければならないのに、その暑さのせゐで僕は部屋の中でウダウダしてゐることが多い。一應スケッチブックやら鉛筆やらをそこら邊に散らかしてあるんだけど、どうにもやる氣が起きない…。

     やる氣が起きないのは、合宿からこつち、氣持を整理しきれてゐないせゐもあるかも知れなかつた。まだ姉ちやんに監視されてゐる手前、女裝をやめる譯にはいかないんだけど、諸先輩方に正體を見破られてしまつた今、こんな恰好をし續けることに意味があるのか、正直疑問に思へてくる。しかし習慣といふのは恐ろしいもので、僕は朝起きるとすぐに女の子の服に着替へるやうになつてしまつてゐた。

    (かういふ服は風通しはいいなあ…それだけは助かる…)

     キャミソールをぱたぱたさせてゐると、窗から誰か入つてきた。

    「おーい、何か飮ませてくれ…」

     野球部のユニフォーム姿のイチキンは、そこ迄言つて、固まつた。僕もびつくりして、キャミソールの裾を抑へて起き上がつた。お互いの長い沈黙の後、イチキンが口を開いた。

    「だ、誰だ君は?」

    「あ、あの…ゆー君のいとこです…」

    「本當に?あいつ、いとこがゐるだなんて聞いたことないぞ」

     イチキンの視線は、どうやら僕の胸元に注がれてゐるやうだ。小さいな、とか思つてゐるんだらうな。さう思ふと、とても恥づかしくなつてきた。顏の火照りが自分でもよく判る。

    「ま、まあ、あいつがゐないんなら、俺、歸るよ。さやうなら」

    「あ、待つて!」

    「え…?」

     僕は思はずイチキンにしがみついてゐた。

    「あたしがここにゐたことを、お願ひだから誰にも言はないで!」

     イチキンはきつと振向いて、僕を抱きしめた。ケガをする迄の中學時代、豪速球左腕として鳴らした逞しい腕が、僕に絡みつく。

    「嫌つ…!」

     僕は何とかイチキンの腕を振りほどいた。イチキンはバツの惡さうな顏をして、窗から外へ出て行つた。

    (うわー、焦つたー)

     僕は床にへたり込んだ。不慮の出來事とはいへ、僕は惱んだ。女裝してゐるせゐでこんなことが起きるのでは危險すぎる。

    (でも、これつて…)

     再び横になり乍ら、僕は考へる。イチキンは僕のこと、男だと氣づいてゐないみたいだつた。その上、僕を抱きしめさへしたのだ。確かに増川部長と有束齋先輩には僕の正體を見破られてはゐる。しかしそんな僕であつても、部長に抱きしめたいと思はせる程の魅力を身につけることは、もつとがんばればもしかして可能なんぢやないだらうか?

    (思ひ上がるなよ、俺…)

     僕は胸に手を當てて、呼吸を整へようとした。しかしそれでも、胸の奧の方から沸き上つてくる變な笑ひを抑へることが出來なかつた。

  2.  二學期の始業の日、教室に着くと、いきなり誰かに羽交ひ締めにされた。

    「うわあ、何だ?」

    「祐太郎〜」

    「その聲はイチキン!」

    「お前、ずるいぞ。あんな可愛い子を家に引つ張り込んで」

     イチキンはまだ拘つてゐたのか?僕は何と言ひ譯すればいいんだ?血の氣が引いていくのが自分でもよく判つた。

    「お前、いとこに會つたのか?」

    「ああ。なあ、あの子、今度紹介してくれよ」

    「そんなこと言つたつて…たまたま夏休みで家に來てゐただけで…今度いつ來るかも判らないし…」

     イチキンはふざけて羽交ひ締めしてゐるのだらうけれど、野球部の練習は着實に功を奏してゐるやうで、僕は苦しさにあへぎ乍ら言つた。ふと氣がつけば、僕らを見てゐた日吉さんが不意に立ち上がり、荒々しく教室から出て行つた。僕は何とかイチキンを振り拂つた。

    「絶對紹介しろよ!」

    「バーカ!」

     僕はさう叫び、教室から飛び出した。日吉さんはどこだ?とキョロキョロすると、廊下の端に立つてゐる彼女が見えた。僕はそこへそつと近づいた。

    「日吉さん…」

    「…辛夷君。さつきの話、本當なの?」

    「うん」

     突然彼女の平手打ちが僕の頬に炸裂した。

    「はあ?何で僕がぶたれなけぁいけない譯?」

     日吉さんは、一瞬しまつたといふ表情をしたけれど、引つ込みがつかなくなつたらしく、まくし立てはじめた。

    「辛夷君が家の戸締りとかちやんとしてゐないからいけないんぢやない!ああ、もう男なんか嫌ひ!イチキンも、辛夷君も嫌ひだー!」

     日吉さんは僕の横をすり拔けてどこかへ行つてしまつた。數秒間、僕は唖然としてゐたけれど、ハッと氣づいて近場のトイレに驅け込んだ。

    (良かつた、ジンジンするけれど、アザとかになつてはゐないや…)

     鏡に顏を映して、僕は一人つぶやいた。これならメイクを乘せても大丈夫だらう。とりあへず安心して、僕はとぼとぼと教室に戻つた。

     既に席についたイチキンが、こちらを見てニヤニヤ笑つてゐる。僕は無性に腹が立つた。全く、僕や日吉さんの苦勞を知りもしないで!かうなつたら、小平ゆうなの告白を絶對成功させてやる。僕が増川部長と付き合ふやうになつたら、お前なんかに指一本もささせないぞ。その時になつて、日吉さんがどんなに淋しい思ひをし續けてきたか、思ひ知るがいいさ…僕は熱つぽい頭で、そんな風に考へてゐた。

  3.  九月も中旬に入つた頃。僕は例の體育館裏のトイレにゐる。いつものやうに、ここで女の子に變身するけど、今日はいつもよりもちよつと念入りだ。何故なら、今日僕は、増川部長に告白すると決めてきたからだ。

     見えない内側から氣合を入れようと、僕は勝負下着を用意して、それに着替へた。勝負下着といふと、布の小さいものが聯想されると思ふけど、僕はブラは逆に大きいものを選んだ。これにパッドを入れて、それ程大きくなくかつ自然に見えるやうに胸を作つた。うつすらと透けるやうなパンツをはき、メイクの方も今日はしつかり目で、口紅もグロスも載せた。

     女の子と男、どちらで告白するかについては、最後迄結構惱んだんだ。部長には僕が男だといふのはバレてしまつてゐる譯だし、それに有束齋先輩はありのままの自分を出していけと僕に言つた。でも、僕はずつと女の子として部長に觸れてきた。さう、入部の時も、部活をしてゐる時も、ケガした部長を助けた時も。合宿の時でさへ、女物の水着を着て通さうと無理をしたぐらゐなのだから、部長の前では女の子でゐ續けることが僕のありのままだ。しかも夏の終りのイチキン事件の時から、僕は女の子としての變な自信をつけてゐた。氣合を入れれば、屹度部長も振り向いてくれる筈だ…。

     そんなちよつと無理のある理屈をつけて、僕は告白の爲にこの姿を選んだ。

     スカートをぎりぎり迄短くして、僕はくるりと一囘轉した。

    (可愛い、可愛い、あたし…)

     自己暗示をかけるやうに心の中でさうつぶやいてゐると、どこからかこんな聲が聞こえた。

    「結局色仕掛けなんだ。嫌だつて言つてゐたのに」

    「えつ?」

     聲は鏡の中からだつた―さう、鏡の中の僕が、僕に向かつて話しかけてきたんだ。僕は赤くなり乍ら反論した。

    「色仕掛けなんかぢやないよ。女の子の魅力を總動員するつてこと」

    「それがつまり、色仕掛けつてことぢやん。もう部長には男だつてことがとつくにバレているんでせう?それなのに、女の子みたいに胸なんか作つちやつて、バカみたい」

    「う、うるさいな」

     僕は口紅で鏡の上の僕の口に線を引いた。

    「もう、黙りなよ」

     そして僕は目をつぶつて小さく氣合を入れた。

    「よし、行かう!」

  4. 「こんにちはー」

     部室の扉を開けると、いつものやうにみんながゐた。部長はイーゼルを立てて、黙々と筆を走らせてゐる。見れば春衣さんもゐて、ふーちやんは一應スケッチブックを展げてゐるけれど、殿間さんに話しかけられて、そちらに夢中になつて手の方がおろそかになつてゐる感じだ。

    「あ、ゆーちやん、もしかしてそれつて?」

     殿間さんが僕の荷物を見て言つた。

    「はい、描き上がりました」

     イチキン事件で動搖したけれど、僕はその後がんばつて、アートユースに應募するつもりの作品をもう描き上げてしまつてゐた。開けていいとも何とも言はないのに、殿間さんは勝手に僕の繪の包みを解きはじめた。

    「あ、殿間さん、ちよつと…」

    「うわー、すごーい…」

     殿間さんは僕の繪を見てさう言つた。いつの間にか、春衣さんとふーちやんも來てゐる。

    「本當だ。綺麗だねー」

    「すごいよゆーちやん、半年でこんなに描けるやうになるなんて」

     殿間さんがさう言つてくれて、僕はやつぱり何だか嬉しかった。

    「小平さん、本當に頑張つたのね」

     さう言つたのは春衣さんだ。僕は少し戸惑つた。今までの春衣さん、何だかちよつと冷たい感じで、人の繪を見ていろいろ言ふことはそんなになかつたのに、今の春衣さんはむしろ餘裕を感じさせる。

    「ありがたうございます…」

     曖昧にお禮を言つて、僕は部長のところに繪を持つていつた。これから告白するんだと思ふと、それだけで何だか胸が熱くなつた。

    「部長…」

    「ん。描けたんだな。僕にも少し見せてくれ」

     部長は僕から繪を受け取り、しげしげと眺めた。

    「…素晴らしい。これなら、入選狙へるよ」

     部長はさう言つて、僕の頭を撫でた。僕はもうそれだけで、心臟がとろとろに溶けて、泣きたくなる程に嬉しく感じた。

    「ありがたうございます…でね、部長…後でちよつとお話が…」

    「うん?それは奇遇だな。實は、僕は今、みんなに話があるんだ」

    「えつ?」

     部長の聲に、みんなが集まつてきた。部長は筆を置いて、立ち上がつて言つた。

    「僕と江古田さんは、戀人として、付き合つていくことにしたから」

    「…!」

     僕は驚いた…いや、その場にゐた全員、多かれ少なかれ驚いたんぢやなからうか。部長の言葉を聞いた殿間さんが、突然身を震はせて立ち上がると、部室を荒々しく出ていつたのだ。

    「殿間先輩!」

     ふーちやんが先輩を追つて行つた。あまりの展開に、僕は呆然と座り込んでゐたのだが。

    「さういふことだ。ゆーちやん、判るね」

     部長が僕に聲をかけた。判るね…。僕にはその言葉が、さやうならを何百倍にもしたもののやうに感じられた。

     悔しいのか、悲しいのか。自分でも判らないうちに、僕はかう口走つてゐた。

    「増川部長。江古田さんと、キスしてくれませんか」

    「えつ!?」

    「さうしたら、あたしはあきらめます。先輩は、あたしの手の屆かないところに行つちやつたんだなつて」

    「その言ひ方、やはり君は、僕のことが好きだつたんだね」

    「はい…」

    「さうか…」

     江古田さんは僕を睨んでゐた。しかし、その表情には、ほんの少しだけ僕を哀れんでゐる感じがあつた。

     部長は、そんな江古田さんを抱き寄せて、口づけした。ほんの一瞬のことだつたのかも知れない。でも僕にとつては、そのキスが、ものすごく長いものに感じられたんだ。

     頬を眞つ赤に染めた江古田さんから離れて、部長は輕く口を拭い、僕に言つた。

    「これで、いいかな?」

    「はい。ありがたうございました。今日はもう歸つてもいいですか?」

    「…いいよ」

    「はい。ぢや、先輩、さやうなら」

     僕は荷物を持つて、部室を出た。廊下をとぼとぼ歩く、何だか足元が覺束ない。足音が聞こえたので氣がつくと、ふーちやんが戻つてきてゐた。

    「あ、ふーちやん。殿間さんは?」

    「保健室に聯れて行つたよ。何だか、すごい熱で。後で、殿間さんの荷物を、まとめて保健室に持つていつてあげようと思ふけど…」

    「さうなんだ…。ああ、あたしも何だか、ふらふらするわ」

    「大丈夫?」

    「うん、でも、今日はもう歸るね。それにしても、ふーちやん」

    「何?」

    「ショックぢやなかつたの?」

    「うん?何が?」

     ふーちやんはちよつと笑つて、部室の方へと戻つて行つた。僕は何だか拍子拔けした。

     僕は女の子の恰好のまま校門を拔けて、モノレールの驛へと向かつた。今迄も、着替へるのが面倒臭くて女子の制服のまま歸つちやつたことが何囘かあるけれど、今日だけはそんなんぢやなかつた。本當は、折角の用意が全く無駄になつてしまつたのだから、こんな服、下着迄含めてすぐに脱いでしまひたい。でもその時の僕は、氣持を挫かれて、とにかく早く家に歸ることしか考へてゐなかつた…。

  5.  家に着くなり、制服を脱いで、風呂場に驅け込みメイクを落とす。ブラも投げ捨て、その邊にあつたTシャツを着て、僕は自分の部屋に入つてベッドにうつぶせに倒れ込んだ。

     涙は出ない。しかし、首筋の邊りがジーンと痺れてゐる。後悔のやうな思ひが押し寄せてきた。そもそもはじめから負け勝負だつたんだ。何故か有束齋先輩の顏が瞼の裏に浮かんだ。さうだよな、女裝なんかでごまかして出たところで、結局叶ふ戀なんかぢやなかつたんだ…。

     扉が開く氣配がした。

    「姉ちやん…?」

    「うん。ねえ、どうしたの?」

    「フラれた」

    「…あんた、泣いてんの?」

    「男はフラれたくらゐで泣くもんぢやない」

    「そつか…」

     足元の邊りがふいに弛んだ氣がした。姉ちやんがベッドに腰かけたんだらう。

    「ねえ、ゆー…」

    「何?」

    「お願ひがあるんだけど…」

    「え、こんな時に?一體どんな?」

    「もう一度だけ、女の子になつてくれないかなあ」

     僕は思はず起き上がつた。

    「何だよ、それ。もうメイクも落としたし、着替へたし。今更面倒だなあ。それに、先輩にフラれちやつた以上、もう女の子の恰好なんかに興味はないぜ」

    「でもさー。今迄、いろいろ服とか、姉ちやん買つてあげたぢやない?」

    「…」

     僕は詰まつてしまつた。確かに、女子の制服は姉ちやんがあつらへてきてくれたものだし、ブラやなんかも姉ちやんのものを流用といふ譯にもいかなかつたので(そもそも姉ちやんは胸がそこそこあるのでサイズが合はなかつた)、何枚か買つてもらひもした。經濟的な面では、姉ちやんに大きな負ひ目があるのも確かだ…。

    「姉ちやん、負けたよ。判つた。着替へてくる。あー、ついでにシャワーも浴びて、すつかりきれいにしてくるね」

     僕は風呂場でシャワーを浴びた。そこで始めて、涙が出てきた。何だか合宿の時みたいだ…僕は思ひ出してゐた。希望が絶たれた今、ほんのこの夏のことなのに、あの合宿の日々がとても遠いことのやうに思へる。

     でも、いつ迄も泣いてはゐられない。濡れた體を拭つた僕は、もう一度女の子の下着をつけ、念入りにメイクをし、制服を着て、部屋に戻つた。

     姉ちやんは僕の部屋で待つてゐた。戻つてきた僕に、姉ちやんは言つた。

    「可愛いよ、ゆー。全部自分でやつたんだよね」

    「うん、勿論さうだよ」

    「隨分上手になつたもんだ。全く、こんなに可愛い子をふるなんて、その部長さんの氣が知れないよ…」

     姉ちやんはさう言つて、デジカメを手にした。

    「え、まさか寫眞とるの?勘辨してよー」

    「今更何を言ふ。知つてゐるよ、海の寫眞、部長さんからもらつてとつておいてあるんだらう?あの、ビキニが激似合ひのやつ」

    「それぁさうだけどさ…」

    「ぢや、あたしに撮らせてくれたつていいぢやない」

     さう言ひ乍ら、姉ちやんはシャッターを切りはじめた。しばらくの間、嫌々乍ら、僕は姉ちやんのリクエストに應じてポーズをとつてゐた。

    「姉ちやん、もういいだらう?」

    「んー、もうちよつとだけ撮らせて!」

    「…ああ。判つたよ。姉ちやん、ありがたうね」

     姉ちやんは驚いたやうにデジカメを持つ手を降ろした。

    「何よ突然。ありがたうつて?」

    「うん、部長にはフラれちやつたけど。この半年、いろいろ大變だつたけど、樂しいこともあつたし。それに、女の子になつてゐなかつたら、僕は美術部にも入らなかつただらうし、もしさうだつたら、あんな素敵な人たちに會ふことも出來なかつたんだから…」

     突然、姉ちやんの手からデジカメが滑り落ちた。

    「ゆー、ごめん!」

    「何で謝るの?」

    「何でつて…あたしの見通しの甘さとか、わがままとか…」

     姉ちやんは泣いてゐた。何でだらう。僕がフラれたから、悔しいのか。もしさうなら、そんなこと、氣にしなくていいのに。ちつとも、姉ちやんのせゐなんかぢやないんだから…。

     僕は、姉ちやんのデジカメを拾つてあげようと、しやがみ込んだ。その途端、激しく眼が眩み、僕は足を滑らせて倒れてしまつた。

    「え?ちよつと、ゆー、どうしたの?」

     姉ちやんが涙聲で言ふのが聞こえる。

    「姉ちやん、部屋の中が何だか暗いよ。電氣はちやんと點いてゐるの?」

    「え、何言つてゐるの?」

    「姉ちやん、をかしいよ…何も見えない…」

    「ゆー、大丈夫、ゆー?うわ、ひどい熱!ちよつと、ゆー、しつかりして…」

     姉ちやんが僕を呼んでゐるらしい。でも、その時の僕は、激しいけだるさに包まれて、もう何も考へられなくなつてゐた。

  6.  結局そのけだるさの正體はひどい風邪だつたやうだ。フラれた次の日のことは、正直何も覺えてゐない。二日後になつて、心配さうに姉ちやんが見つめてゐるその下で、僕はやつと目が覺めた。

    「あ…僕は…」

    「ゆー…良かつた…」

     頭の下で何かゴロゴロしてゐる。手を伸ばして探つてみると、それは氷枕のせゐだつた。

    「これは…姉ちやんが?」

    「うん」

    「さうか…ごめん…」

    「謝ることなんてないよ。どう?氣分は?」

    「うーん、すつきりしたと言ひたいけれど、まだちよつとだるいな…」

    「さう。ぢや、寢てゐなさい。學校には聯絡してあるから。あたし、自分の部屋にゐるから、何かあつたら呼びなよね」

    「姉ちやん、何だか、母さんみたいだなあ」

    「バカ…」

     姉ちやんは立ち上がり、そつと扉を開けて出て行つた。僕は掛布を引つ張り上げ、眼を閉ぢた。そのけだるさの中で、僕はひそかに決心した。さうだ、その爲には、最後にひとつだけ、姉ちやんにお願ひしなくてぁ…。

  7.  大事を取つてその次の日も休み、フラれた日から三日開けて今日、いよいよ僕は學校へと出陣する。氣合を入れる爲、僕は男子の制服のネクタイを少しきつめに締めた。今日からはもう、變身用の女子制服を持つて行くことは必要ないから、荷物が輕い。玄關で靴を履いてゐると、姉ちやんが出てきた。手に封筒を持つてゐる。

    「プリントしておいたよ」

    「あ、どうもありがたう」

    「…なあ、本當に大丈夫なのか?」

    「姉ちやんの看病のおかげで、すつかり風邪は治つたよ、大丈夫だつて。しつかり、ケリをつけてくるさ」

     僕は家を出た。

  8.  モノレールから降りると、スポーツバッグを持つたイチキンが先を歩いてゐるのが見えた。僕は聲をかけた。

    「おーい、イチキン!」

     羽交ひ締めにされた時から、僕はイチキンを避ける感じにしてきたので、彼は僕の聲を聞いて、面倒臭さうに振り向いた。

    「何だよ、これから朝練なんだ」

    「知つてゐる」

    「だつたら、先に行かせてくれないか…」

    「まあまあ、いいぢやん。イチキン、かういふの、欲しくないかな?」

     僕は封筒をイチキンに手渡した。イチキンはいぶかしげに封筒を開けた。

    「これつて…あ、お前のいとこぢやん!お前、やつぱり話せるなあ!」

     封筒の中に入つてゐた、姉ちやんが撮つた僕が女裝した寫眞を、しばらくの間イチキンは嬉しさうに眺めてゐたが、やがて何かに氣がついたのか、寫眞と僕とを交互に見比べはじめた。

    「これ、何だかお前に似てゐないか?そこはやはりいとこ同士だからか?」

    「いや、さうぢやない。もつとよく見てみろよ」

    「う…これ、まさか、お前?」

    「さうだよ」

     イチキンは突然後ずさりした。

    「寄るな、この變態!」

    「ひどい言はれやうだなあ。少し僕の話を聞いてくれよ」

     澁るイチキンをなだめ乍ら、僕らは手近なベンチに腰かけた。僕はこれ迄の一部始終をイチキンに物語つた。増川部長との出會ひから、合宿のこと、そしてこの間フラれたこと迄…。

     話を聞き終へて、イチキンは頭を振り乍ら言つた。

    「…判んねー」

    「まあ、イチキンには判らないだらうね」

     僕の答へに、イチキンは例のハンドサインを作つて突き出してきた。

    「それぁどういふ意味だよ?」

    「日吉さんのことさ」

    「何だつて?」

    「日吉さんが野球部のマネージャーになつたのは、それは絶對、お前が好きだからつてこと」

    「何を、馬鹿な…!」

    「お前が中學の時、自轉車とぶつかつて、それが案外大きなケガになつちやつた時、一番心配してゐたのは日吉さんさ。泣いてゐたよ。確かあれは、日吉さんの忘れ物を、お前が取りに行つてあげようとしてゐた時に起きた事件だつたよな」

    「…」

    「そんな嫌な思ひ出から彼女を救つてあげられるのは、お前しかゐないつてのは、判りきつたことぢやないか。いや、責任を取れとか、同情しろとか、さう言ひたいんぢやない。日吉さんを無視したり、からかつたりしないで、もつとしつかり彼女に向き合つてあげてほしいんだ」

    「…」

     イチキンは地面を見つめて黙り込んでゐる。顏を上げさうになかつたので、僕は輕くため息をついて立ち上がり、言つた。

    「寫眞はやるよ」

     イチキンもいきなり立ち上がつた。

    「要らねえよ、こんな…」

     と叫ぶやうに言ひ乍らも、イチキンは寫眞を鞄の中にしまつた。

    「ばらしちまふぜ。いいのかよ」

    「全然。僕は、自分がやましいことをしたなんて思つてぁゐない。それぁ、ちよつと拙劣な作戰だつたつて、後悔はしてゐるけどさ。それにもう、すつかり過去のことだし」

     イチキンはフンと鼻を鳴らして驅けて行つた。僕はもう一度ため息をついた。言ふだけのことは言つたんだ、これでイチキンがどう出るかは、イチキンの氣持に任せるしかない…。

  9.  そして放課後。僕にはもうひとつ、決着を付けなければならないことがある。だから僕は、美術部室で待つてゐた。果して、殿間さんが部室にやつて來た。

    「殿間先輩」

     僕は聲をかけた。先輩は、かなり驚いた樣子で、僕を見た。

    「あなた、誰?あ…ゆーちやん?女裝して部長を陷れようとした、穢らはしい男ね!」

     ひどい言はれ樣だが、僕はぐつと我慢した。

    「殿間先輩がさう思ふなら、いいでせう、受け入れますよ。先輩は、今日、ここに何をしに來たんですか?」

    「忘れ物をとりにきたのよ」

    「さうですか。ここに置いてあつた私物を引き上げて、退部といふ寸法ですか?」

    「な、何を言ふのよ。退部しようが、しなからうが、あたしの勝手ぢやない」

    「さうかも知れませんね。でも僕は、先輩に、退部してほしくないんです」

    「ゆーちやん!誰があんたの指圖なんか…」

    「僕は氣づいたんですよ。殿間先輩は、繪が好きで、美術部にゐるのに繪を描かない、それは何故か。繪を描かなければ、それをネタに、増川部長がいぢつてくれる。先輩はさう思つて、部長の優しさを利用し續けてきたんぢやないんですか?」

    〈バシッ!〉

     殿間さんの平手が僕の頬に飛んだ。一瞬、僕の首から上が消し飛んだかと思つた…ものすごく痛い。

     耳鳴りにつぶされるやうになり乍らも、殿間さんが僕を罵る聲が聞こえてくる。

    「あんたなんかに何が判るつていふのよ!女裝好きの變態の癖して!」

    「ぢやあ、女のあたしが言ふなら、聞いてもらへますか?」

     僕は強ひて顏を上げようとした。部室に飛び込んできた聲は、ふーちやんのものだ。痛みが效いてゐて、はつきりとは判らないけど、ふーちやんがいつになくはきはきとしやべつてゐるのが傳はつてきた。

    「殿間先輩は、本當は繪が大好きなのに、繪を描かないなんて、をかしいです」

    「ふーちやん、あんた迄!」

    「部長だつて辛かつたんだと思ひます。絶對、殿間先輩の好意に氣がついてゐた筈だもの。でも、だからこそ屹度、春衣さんとの關係をちやんとしようと思つたんだわ、部長は…。ねえ殿間先輩、みんな、みんな、變はつていくんです。それなのに、殿間先輩だけ變はらないでゐようだなんて、それは無理なんぢやないですか?」

    「な、なによう…みんなして寄つてたかつて…そんなに言はなくたつていいぢやないのよう…ウ、ウワーン!」

     遂に殿間先輩は泣き出してしまつた。こちらがたぢろぐ程の勢ひだ。ふーちやんも驚き、持て餘した樣子で、少しおろおろし乍ら言つた。

    「ち、ちよつと先輩」

     まだ少し痛みが殘つてゐたけれど、僕は無理して立ち上がり、ふーちやんに言つた。

    「ふーちやん、出よう」

    「だつて…」

    「いや、いいんだ。今は思ひつきり泣かせてあげようよ。獨人にしておかう」

     僕たちは部室を出た。そのまま、何となく、校舎内をぶらぶらと歩く。ふーちやんも、どういふ譯か、僕の後をついてきた。さうかうしてゐるうちに、僕たちはいつしか、あの中庭に來てゐた。

    「あ、ここは…」

    「ここ、普段あまり來ないから、ちよつと懷かしい感じがするね」

    「ああ、本當だ」

     僕はふーちやんに相槌を打つた。短い沈黙の後で、ふーちやんが僕に問ひかけてきた。

    「ねえ」

    「ん?」

    「さういへば、まだ本當の名前、聞いてゐないね」

    「えつ、さうだつけ?僕の本當の名前は、辛夷裕太郎」

    「そつか。ぢや、これからもよろしくね、辛夷君」

    「こちらこそ、どうぞよろしく」

    「辛夷君、美術部やめないよね?」

    「え?ああ、うん。アートユースの結果が知りたいからね。あ、でも、あれだ…僕の出品名つて、もしかしたら小平ゆうなになつてしまつてゐるんだらうか?」

    「たぶんさうかな?となると、出品取り消しかもね?」

    「參つたなー、結構がんばつて描いたのに…」

    「冗談よ!まだ、〆切先ぢやない」

    「あ、さうか。ひつかかつちやつた!」

     僕らは笑つた。

    「…辛夷君。大丈夫だよね?」

    「うん?何が?」

    「名前を變へるのを、部長に言ふの」

    「ああ、大丈夫。勇氣を出して、男として、再入部するつもりさ」

    「良かつた…」

     また少し沈黙。そしてまた、ふーちやんが僕に言ふ。

    「辛夷君、聞いてくれる?」

    「うん、聞いてゐるつて。何?」

     ふーちやんは横を向いた。頬が赤く染まつてゐる。その姿勢のまま、彼女は、つぶやくやうに言つた。

    「あたしね…女裝迄して、先輩に近づかうとがんばつてゐる人に、ちよつと心引かれてゐた、つて言つたら、辛夷君どうする?」

    「ちよつと待つて!」

     あまりの展開に、僕はふーちやんを遮つた。深呼吸をして二、三秒。

    「…ふーちやん。僕は、失戀したばつかり」

    「あ、さうか、さうだつたね…ごめん」

    「いやいや。それにさ。もしかしてでも、そんなこと、女の子の口から言はせられないつて」

    「辛夷君。をかしいよ、それ」

    「え、何で?」

    「君も女の子だつたぢやない」

    「あ、さうか!」

     もう一度、僕らは聲を合はせて笑つた。