次の日の朝、僕は、チューブトップに短パン、麥藁帽をかぶり素足にサンダルといふ出で立ちで、車の準備をしてゐる有束齋先輩に聲をかけた。
「先輩、今日も土を取りにいくんでせう?手傳はせてください」
「今日は海はいいのか?」
「はい」
「まあ、手傳つてくれるのは構はんが、その格好では…」
「女の子の格好、變だつていふんでせう?でも、お氣に入りなんです、この服。それに、帽子もかぶるし、肩に日燒けどめも塗つてきたし」
「いや、その準備は殊勝なことと思ふが、儂が言ひたいのは服のことではない」
さう言つて、有束齋先輩は僕の足元に視線を落とした。何だらう、と思つたが、僕はやつと氣がついた。
「やつぱりサンダルぢやだめですか?」
「ああ、それでは心もとない。待つてくれ…」
先輩は車の後ろをごそごそと引つ掻き囘した。
「こんなのしかないか…、あちらについたら、履き替へるが良からう」
先輩が手に提げてゐるのは、古くて汚い運動靴だ。
「えー、そんなの履くんですか?」
「履いてもらはなければ困る。その可愛い足に、ケガでもされたら堪らんからな」
先輩は怒つたやうに車に乘り込んだ。僕は少しあわてて、助手席に登つた。
「ごめんなさい!」
「いや、何の。それでは行かうか」
先輩は車を發進させた。
「それ程遠く迄行く譯ではないから、冷房は使はずに行くか。窗を開けてくれ」
先輩に言はれて、僕は窗を開けた。邊りに木が多い爲か、車内に吹き込んでくる風はそこそこ涼しかつた。
しばらくは僕も先輩も無言だつたけれど、僕は昨日氣になつてゐたことを思い切つて先輩に訊ねてみることにした。
「先輩、昨日、訊き忘れたことがあるんです」
「うん?」
「先輩つて、殿間さんのこと、好きなんですよね?」
「やはり判るか」
「ええ。でもなんで、殿間さんて、先輩に對してあんなにつんけんしてゐるんでせう?」
「爺むさい奴は嫌ひなんだらう」
「全然そんなことないのに…」
「まあ、奴には奴なりの考へがあるんだらうさ」
またしばらくの沈黙の後、先輩が付け足した。
「まあその、何だな」
「はい?」
「昔はバイクの後ろにあいつを乘せて走るのが最高に樂しかつた。しかしそれがバレて、あいつもこつぴどく叱られたさうだし、儂は寺行きにされたし。結局、見かけ倒しの頼りにならない男と思はれたんだらうよ」
「…」
僕は返事が出來なかつた。車は未舗裝の畦道に入つた。しばらく激しく搖られた後、生け垣に圍まれた民家の庭先に先輩は車を乘り付けた。
「土を取らせていただくのだから、こちらのお宅に一言ご挨拶をしてくる。お主は車の中にゐてもよいぞ」
「あ、いえ、あたしも一緒に行きます」
僕は例の汚い運動靴を履いて、先輩の後についていつた。
「ごめんください…」
先輩は引き戸を開け乍ら、家の奧に聲をかけた。僕はその引き戸から、家の中を覗き込んだ。やがて、かはいらしいお婆さんが出て來て、先輩と挨拶を交はしはじめた。會話の樣子から察するに、このお宅は、先輩が昔厄介になつてゐたお寺の和尚さんから紹介されたらしい…。
それにしても氣になるのは、引き戸を開けたところの床が、土が剥き出しになつてゐることだ。こんな家、有りなのだらうか?さう思つてゐるうちに、先輩が戻つてきた。
「ご挨拶が濟んだ。車をここに停めておいて大丈夫ださうだから、早速出かけよう」
先輩がさう言つたので、僕は奧のお婆さんにお辭儀をし、先輩について車へと戻つた。先輩は車から、大きなリュックのやうなものを取り出した。
「うわー重さうですね。手傳ひませうか?」
「かたじけない。だが、大丈夫だ。行かう」
先輩と僕は、竝んで畦道を歩いた。僕は先輩に言ふ。
「ねえ先輩。さつきの家、變でしたね」
「さうか?」
「下が土でした」
「ほう、お主は、土間を見たことがないのか?昔の家は大概ああいふものだが」
「さうなんですか?」
「土間を知らない子がゐるとは…、世の中も變るのう」
「うーん、やつぱり、有束齋先輩つてすこしをぢん臭いかも」
「戯けめ!」
「キャー」
僕らはふざけ合ひ乍ら畦道を歩いた。やがて有束齋先輩は、休耕田らしい草の生えた空き地のそばで立ち止まつた。
「よし、ここだ。土を取つてくるから、少し待つてゐてくれ」
僕は土手に腰かけた。先輩は、例のリュックの中から鎌とスコップを取り出し、空き地へと降りていつた。先輩は、鎌で草を刈り、スコップで土を掘りはじめた。だが、ほんの四、五掬ひをビニール袋に入れただけで、先輩は掘るのをやめてしまつた。僕は少し驚いて、立ち上がり乍ら言つた。
「え、そんなもんなんですか?」
「人樣の土地のものだからな、そんなに澤山いただく譯にもいくまい。ただ、ここから先が大變だ」
先輩はさう言つて、枯れ葉や木つ端を集めだした。僕も手傳つた。
「先輩、これ、どうするんです?」
「まあ察しがついてゐると思ふが、火を點ける」
先輩は、お好み燒きを作る時に使ふやうな鐵板を持つてきて、その下で、集めてきた枯れ葉などで火を點けた。鐵板を温め乍ら、先輩が言ふ。
「この上に土を載せて、一旦燒き、蟲や微生物を殺してしまふのだ」
「面白さう!僕にもやらせてください」
「それはいいが、熱いぞ?」
「頑張ります!」
「よし、やつてみろ」
僕は鐵板に土を載せ、先輩の指導に從つて、土をスコップで混ぜるやうにした。
「うわー、熱ーい」
「何だつたら、脱ぐか?」
「その手は喰ひませーん」
チューブトップが汗でぐしよぐしよになつてしまつたけれど、僕は頑張つた。土から發する嫌な臭ひがなくなり、土がバラバラの粒状になつてきたところで、先輩が言つた。
「よし、では冷まそう」
鐵板をずらせて先輩が水をかけると火が消えた。僕は汗を拭ふと、ちよつと疲れてまた土手に座つてしまつた。チューブトップをぱたぱたさせて、胸に風を送り込むと、ほんの少しだけ涼しくなつた。そんな僕の隣に先輩も座つた。
「喰ふか?」
さう言つて、有束齋先輩は、僕の眼の前におにぎりを突きつけてきた。
「え、こんなものをどこから?」
「宿で作つてきたのだ」
「準備がいいですねー。いただきます。や、實を言ふとお腹空いちやつて」
「育ち盛りか。胸を大きくするのか?」
「もう、からかはないでくださいよ!昨日、ふーちやんにもそんなこと言はれましたよ」
「ハハハ、さうか」
有束齋先輩と二人きりで別に誰にも見られてゐない、スカートぢやなくて短パン、そんな氣樂さから、僕は土手にあぐらをかいて、おにぎりにかぶりついた。先輩が言つた。
「その方がずつと自然に見えるが…」
「うん。僕もさう思ふ」
男同士、この際所謂「ため口」でも構はないかなと思つて、思ひきつてそんなしやべり方をしてみたけれど、先輩は氣にする樣子もなく、續けて訊ねてきた。
「では、女のふりはやめるのか?」
「それはまだ判らない。大體今は無理だよ、部長と先輩には氣づかれちやつたけど、他の子たちの前では僕はまだ女なんだから。それに、服も、女の子のしか持つてきてゐないし」
「成程、さうか」
「でもね先輩、僕、決めた」
「何を?」
「新學期になつたら、部長にちやんと告白しようと思ふ」
「さうか、昨晩儂があんな話をしてしまつたからな…そして、それは男として?女として?」
「それもまだ判らない。まあ、殘りの夏休みの間に決めるよ」
先輩は、いつもの癖で、頭を掻いた。
「儂としては、お主を手放しで應援することが出來ないのが申し譯ないことだが…」
「春衣さんのことだね」
「うむ。儂は長いこと二人を見てをるからな、あちらの方に同情的だ。だが、だからといつてお主を妨害するのも、眞つ當なこととは思へない。小平、お主は、お主の思つた通りにするが良い」
「うん」
「さあ、そろそろ戻るか。途中、コンビニに寄つて、殿間のパンを買はう」
先輩は冷めた土をまたビニール袋の中に戻して、道具類をてきぱきとリュックの中にしまつた。リュックを背負ひ歩きはじめた先輩を見て、僕はふと、先輩に驅け寄つて、その腕を抱きしめた。
「小平、何の眞似だそれは?」
「別に…。僕の思つた通りにしてみただけ」
「儂に同情してをるのか?」
「迷惑?」
「儂にだつて、判らんことは判らんよ」
先輩はさう言つて笑つた。どういふ譯か、突き拔けるやうな、爽快な笑ひ聲だつた。
宿へと戻ると、縁側で、殿間さんとふーちやんがおしやべりをしてゐた。髮が濡れてゐるところを見ると、彼女たちは今日も一泳ぎしてきたらしい。僕を見つけて、ふーちやんが言つた。
「あれ、ゆーちやんだ。どこに行つてゐたの?」
「有束齋先輩を手傳つてきました」
その時、殿間さんが、妙なテンションで僕に吠えついてきた。
「あいつと?ねえ、ゆーちやんに變なことしなかつた?林の中で二人きり、とか…」
反射的に僕も怒鳴るやうに應へてしまつた。
「先輩はそんな人ぢやありません!」
突然僕の眼から涙が落ちた。やばい、メイクが崩れる!
「ちよつと、どうしたつていふのよ、ゆーちやん!」
「あ、ち、違ふんです…!あの…汗かいたから、着替へてきます!」
僕はごまかして、その場を離れ、自分の部屋へと逃げ込んだ。服を脱ぎ捨て、泣き乍らシャワーを浴びた。やうやく涙も止まり、Tシャツとデニムのタイトなミニスカートを身に着けて顏を直し終へたところで、ドアをノックする音が聞こえた。
「はーい?」
ドアを開けてみると、そこには殿間さんがゐた。滿面の笑みをたたへてゐる、だけど僕は知つてゐる。女の子は、單純に怒つた顏をしてゐるときよりも、かういふ表情をしてゐる時のはうが何十倍もやばい。
「ゆーちやん、あたし、知つてゐるんだよ」
「な、何を…?」
「あなた、部長のこと、好きなんでしよ?」
「は、はい…」
「ぢやあ、あたしたちのことに首突つ込まないでくれる?」
何が「ぢやあ」なのかよく判らない。しかし、こんな時に女の子に逆らふと、ろくなことにならないのは知つてゐる。
「うん…」
僕の曖昧な返事に、殿間さんは笑つた。なんて素敵で、そして邪惡な笑顏なんだらうか…。
「良かつた。ゆーちやんもがんばつてね」
「殿間さん?」
「部長、おつぱいが小さくても、氣にしないみたいよ」
「先輩ー!」
「へつへー」
殿間さんはパタパタと走つて行つてしまつた。僕は扉を閉めてため息をついたが、その途端、またもやノックが聞こえた。
「ひやあ!?」
「あ、ごめん…おどろかせちやつた?」
扉を開けて、ふーちやんが顏を出した。手にはお菓子と、何やら封筒のやうなものを持つてゐる。
「ね、ちよつと入つていい?」
「う、うん。あ、ちよつと待つて!服脱ぎつ放し」
僕は急いで脱いだ服を押し入れの中に隱し、座布團を敷いた。
「はい、どうぞ」
「ぢやあお邪魔しまーす」
ふーちやんは部屋に入つてきて、僕が用意した座布團の上に横座りした。この邊が、やはり本物の女の子は違ふ。ワンピースの裾がめくれて、縞パンがちらりとだけ見えた。ぶしつけなことと判つてゐるのに、僕の股間が反應しはじめた。が、ふーちやんはそんなことを全然氣にしないのか、僕にかう言つた。
「女の子同士だもん。足、崩せば?」
「え?う、うん、さうだね」
僕はぎごちなくあぐらをかいて、たまたまそこにあつた大きめのペットボトルを足の間に置いて抱へるやうにした。これで股間のふくらみを上手くごまかせてゐればいいけれど…。
ふーちやんは、お菓子の袋を開けて、自分で食べ乍ら、僕に勸めるやうにその袋をさしだしてきた。それを受けとり乍ら、僕は言つた。
「ところでふーちやん、何しに來たの?」
「んー?あ、さうだ。寫眞が出來たよ」
「寫眞つて?」
「昨日の海の寫眞」
ふーちやんは封筒の中から紙片を取り出して僕に渡した。寫眞だ。そしてそこには、確かに昨日の僕らが寫つてゐる。僕は愕然とした、昨日の僕はこんなクレイジーな恰好で人前に出てゐたのか?何だか冷汗が出てきた。
「ふーちやん…いつの間に撮つたの?」
「ん?違ふよ、これ撮つたの部長」
「ええー、部長が?尚更不思議だよ、本當に、いつの間に撮られてゐたんだらう」
「ねー。それに部長、モバイルプリンタ持つて來てゐたんだつて。部長つて實はちよつと危ない人だつたりして?」
「そんな譯ないでしよ!」
「あ、ごめん。ゆーちやんて、部長好きなんだよね。變なこと言つちやつた」
ふーちやんが言つた。何だか困る、ふーちやんに笑顏で言はれると、つい許してしまふ。ぼくがもじもじしてゐると、ふーちやんが思ひ出したやうに言つた。
「さう言へば、さつきここに殿間先輩來なかつた?」
「うん、來たよ。何で?」
「殿間先輩つて、有束齋さんがゐるから、この高校受驗したんだつて」
「え、ぢやあ、やつぱり?」
「うん。でもね、マネ狩りの件があつたでしよ」
「うんうん」
「それで助けに來たのが増川部長だつたから。何で嵐山ぢやないのーつて、拗ねちやつたの」
「嵐山?」
「あ、嵐山は、有束齋さんの本名。本當は嵐山靜鷹つていふんだつて」
「なんだあ。本當に、有束齋なんて、何か嘘くさい名前だと思つた。…それにしても、それつて仕方ないことぢやない?なんだつけ、不可抗力?ていふんだつけ?」
「そこが理屈ぢやないのよねー。なかなか素直になれなかつたりね」
僕は殿間さんの氣持が半分だけ判るやうな氣がした。單純に比べられるものではないかも知れないけれど、今日の僕にしたつて、をかしなところがある。土を取る作業が大變さうだから僕は有束齋先輩を手傳つた、僕は僕自身の動機をさう捉へてゐた。しかし今日、僕を男だと見拔いた部長を、僕は避けてはゐなかつたか。僕を男だと知つた上で、受け入れてくれてゐる有束齋先輩に對して、憧れる氣持が全くなかつたと言ひ切れるか。
こんがらがつてきた僕は、ペットボトルから飮み物を一口飮んで、ため息をつき乍ら言つた。
「これからどうすればいいのかしら…」
「ゆーちやん、どうにか出來ると思ふの?」
「え?ふーちやん、それつてどういふ意味?」
「だつてね、こんなこと、それぞれの思ふ通りに、がんばつていくしかないぢやない」
有束齋先輩みたいなことを言ふな、と思ひ乍ら、僕はついつぶやいてゐた。
「…ふーちやんつて、クール!」
「普通だよ」
ふーちやんは、さう言つて、僕のはうへ少しにじり寄つた。
「でもねゆーちやん。何かあつたら、あたしに相談してね」
「うん?」
「ゆーちやんは、あたしのこと、美術部のおまけみたいに思つてゐるかも知れないけど。でもあたしは、ゆーちやんのこと、いつも見てゐるから」
「そ、それは…ありがたう…」
不思議な氣がした。増川部長の勸誘が成功したから、ふーちやんは美術部に來たのだと、僕はずつと思つてゐた。しかし本當にそれだけなのだらうか、なぜふーちやんは、美術部にゐるんだらう…。
ふーちやんは腕時計をちらりと見た。今迄氣がつかなかつたけれど、女物の小さいかはいいやつだ。
「あ、もうこんな時間?ゆーちやん、晩ご飯取りに行かう」
「お菓子結構食べちやつたよ。入るかなあ?」
「大丈夫大丈夫。あ、寫眞はくれるつて」
ふーちやんが立つたので、僕も一緒に立ち上がつた。
二泊三日の合宿も終りにさしかかり、僕たちはまた有束齋先輩の運轉する車に乘つてゐる。車は高速道路を爽快に走り、遊び疲れか、殿間さんとふーちやんは寢てゐる。合宿中、その姿をあまり見かけなかつた春衣さんだけど、彼女は彼女でスケッチとかで忙しかつたらしい。眠り込んでしまつてゐた。
運轉してゐる有束齋先輩がつぶやくやうに言つた。
「お姫樣、みんな寢ちやつたか」
僕は先輩に應へた。
「あの、あたし起きてゐます」
「うん?しかしお主は…」
「先輩、シーッ!」
まだバラされては困るんだ。ミラー越しに、先輩の苦笑ひが見えた。
「ムニャムニャ…」
隣の席のふーちやんが小さく呻いた。そして驚いたことには、僕の手を握つてきた。ミラーを見たのか、部長がめざとくそれに氣づいたらしい。
「隨分仲がいいな」
「えへへ…」
僕は笑つてごまかすしかなかつた。ふと窗の外を見ると、東京タワーがあつた。國立府中インター迄はまだ大分距離があるけれども、何だか歸つてきたな、といふ感じがする。ビルの間に見え隱れする東京タワーを見乍ら、何だか僕は、今年の夏はすぐに過ぎ去つてしまふやうな豫感を感じてゐた。