どろーわーず

track06 夏の光(後編)

  1. 「隨分變はつたお宿だねえ」

     ふーちやんが僕に言ふ。變はつてゐるといふのは、このお宿の夕食のシステムのことで、お膳やお櫃を調理場から自分で運んで行かなければならないのだ。僕とふーちやんは、一應後輩といふことで、みんなの分の食事を調理場に取りにきてゐた。料理人は食事を作り終ると歸つてしまふのか、調理場には誰もゐない。

    「でも、かういふ風だから、お代も安いといふことなんぢやない?」

     ふーちやんにさう答へ乍ら、僕はうきうきした。先輩方の言つてゐた通り、おかずは海産物が主體だつた。メバルの煮付け、アヂフライ、ひじき、マグロのぬた。お膳の上には、僕の好きなものが竝んでゐる。

    「あれ、ゆーちやん、嬉しさうぢやん」

    「さ、さう?」

    「もしかして、かういふおかずが好き?」

    「うん。自分ぢや作れないしね」

    「さうなんだー。あたしは、嫌ひぢやないけど、グラタンとかのはうが良かつたなあ」

    「この暑いのにグラタン?」

    「だからいいんぢやない!」

     そんなことを言ひ乍ら、僕たちは夕食を宴會場のやうなところに運び、みんなを呼んだ。

     みんなは三々五々集まり、何となく夕食になつたけど、お膳を前にして、殿間さんだけが悲しい顏をしてゐる。

    「あれ、どうしたんですか?」

    「あたし、お魚食べられないの…」

     それを聞いて有束齋先輩が立ち上がつた。

    「驛の方にコンビニがあつたな、車でパンでも買つてこよう」

    「何を、おせつかいな…」

     殿間さんは膨れたが、有束齋先輩はそれを全く氣にかけない。

    「殿間の分のメバルは置いておいてくれ、戻つたら儂が喰ふ」

     さう言つて出て行く有束齋先輩の姿が見えなくなつたところで、殿間さんが吐き捨てるやうに言つた。

    「何さ、偉さうぶつちやつて!」

     ふーちやんが笑つてゐる。

    「殿間さん、有束齋先輩嫌ひなの?」

    「當り前ぢやない!あんなをつさんくさい奴」

    「さうかなあ。澁くて素敵ぢやない」

    「う、ふーちやんつてもしかして老け專?」

    「違ひますよー。あたしはね、あんなに殿間さんに優しい有束齋先輩が可哀想つて言ひたいんです」

    「ふん、誰が…ねえ、ゆーちやん!」

     突然呼びかけられて、僕はむせた。

    「ケホッ、ケホッ…はい、何ですか?」

    「晝間部長と何話してゐたの?」

    「あ、その、大したことは…畫材の話とか…」

    「ふーん、告白されてゐたりとかぢやないんだー」

     ふざけた口調乍ら、どこか棘があるやうに感じたのは、僕の思ひ過ごしだらうか…?

    「違ひますよ…」

    「殿間先輩、そんなことはいいから、お風呂行きましよ」

     ふーちやんが割り込んできて、僕は救はれた。

    「ん?あ、さうだね。ゆーちやんは?」

    「ゆーちやんはもつと食べなけぁなの。おつぱい大きくするんだから」

    「もう、バカつ!」

    「へへへつ」

     殿間さんとふーちやんは、笑ひ乍ら出て行つた。部長と春衣さんは、どういふ譯か先に食べ終つてすぐに出て行つてゐたので、僕は宴會場に獨人になつた。正直、僕は助かつた。

    (胸の爲ぢやないけれど、もう少し食べようかな…)

     さう思つてご飯をついでゐると、有束齋先輩が入つてきた。

    「あ、早かつたですね」

    「殿間は?」

    「お風呂行きましたよ。ふーちやんと」

    「さうか。小平、惡いがこれを殿間に屆けておいてくれないか」

     さう言つて有束齋先輩は、コンビニの袋を僕に差し出した。中に菓子パンの類が入つてゐるのが見えた。

     有束齋先輩は、本當に、殿間さんが殘したメバルの煮付けに箸をつけた。しばらくは僕も有束齋先輩も無言のままに食べ續けてゐたけれど、やがて先輩が言つた。

    「さういへば、話があるから、後で小平の部屋に行つても良いか?」

     僕は少しどぎまぎした。

    「いいですけど…エッチなことする氣ぢやないでせうね」

    「何を、バカな」

     有束齋先輩は、さう言ひ捨てて、箸を置いて行つてしまつた。氣がつけば、宴會場にはまた僕獨人…あれ、といふことは、片付けを僕一人でやらなければならないのか、しまつた…と思ひ乍ら、僕は食器やらお膳やらを、何度か往復し乍ら、調理場へ持つて行つた。

     その後で、僕はパンを持つて、殿間さんとふーちやんの部屋に行つてみた。ノックをしてみたが、返事がない。流石、本物の女の子の風呂は長い。僕はドアノブに、パンの入つたコンビニ袋を下げて、逃げるやうにそこから立ち去つた。

  2.  僕は自分の部屋でシャワーを浴びた。さつぱりしたところで、僕は窮屈なのでブラは着けず、宿の浴衣もあつたけれどあへてワンピースを着て、髮を簡單にまとめ、部屋の燈りを暗めにした。これなら、有束齋先輩がこの部屋に來て、メイクをしてゐない僕を見ても、僕が男だとバレることはないだらう…。

     少し火照つた體を冷やさうと、僕は窗を開けた。潮風が入り込んできて氣持ちいい。

    「おや…?」

     ふと氣がつくと、部長と春衣さんが砂濱にゐるのが見えた。いつだつたか、ポプラの木の下でさうだつたやうに、二人は口論してゐるやうに見える。

     どうしよう、この部屋を出て行つて、仲裁するべきなのかな…そんな風に思ひ乍ら、何か踏ん切りがつかないままでゐると、扉をノックする音が聞こえてきた。

    「入つてもよろしいかな?」

     僕は少しあわてて、裾を直し乍ら答へた。

    「あ、はい!鍵開いてゐます」

    「では邪魔いたす。…おお、あれは増川かね?」

     部屋に入つてきた有束齋先輩は、窗から外を見て言つた。

    「さうなんです」

    「彼等も大變だな…」

     先輩が着てゐるのは宿の浴衣だが、普段から作務衣のやうな和裝になれてゐる爲か、着崩れた感じがまるでなく、ぴしつとしてゐる。その先輩が、裾を器用に拂つて正座したものだから、僕もつられて先輩に向かひ合つて正座してしまつた。何だか時代劇みたいだ。

    「こんな時に何だが、話があるからやつて來た」

    「ええ、それは知つてゐますけど、何でせう?」

     先輩はすぐに答へず、部屋の中にあつたお茶道具をとつて、お茶を二杯入れた。電氣ポットとありふれた急須を使つてゐるのに、妙に型にはまつてゐる感じだ。先輩が僕の前に押し出してきたお茶を、僕は少し緊張し乍ら啜つた。先輩が何も言はないので、僕は少し不安を感じ乍ら、先輩に話しかけた。

    「先輩…さつき、部長たちを見て、大變だなつて言ひましたよね。どういふことです?」

    「増川の進路のことだ」

    「進路?」

    「大學受驗があるぢやらう。増川は繪も上手いが、エンジニア志望でもあつてな。筑波の方に行きたいらしい。さうなると二人離ればなれになつてしまふから、江古田君は、どうやらそれが不滿のやうだ。まあそんなことはともかく」

     先輩もお茶を一口含み、言葉を續けた。

    「お主もそんな無茶な芝居を、いつ迄續けるつもりなのだ」

    「有束齋先輩…!?」

    「お主、本當は、男だらうが」

     僕はどきつとした。まさか、増川部長だけでなく、有束齋先輩迄?

    「先輩、一體、どうして…」

    「少々思ひを巡らせれば判らうといふものだらう。増川が、何故お主だけにシャワー付きの一人部屋を用意したか。それはお主を無用な恥辱から遠ざける爲ではないのか」

    「さういへば、さうですね…」

    「まあそれだけではなく、お主がはじめて、儂の作陶を見てくれた時から、これは少々怪しいと睨んでをつたぞ。近くに寄つても、女性特有の匂ひや柔らかさが感じられなかつたからのう」

     僕は恥づかしく、また悔しく思ひ乍ら、気持を鎭めようとお茶を啜つた。有束齋先輩もさらに一口飮んで、話を續ける。

    「お主は増川が好きなのだな」

     僕はついに開き直つた。

    「ええ、さうですけど?だから何なんです?江古田さんのこともある、身を引け、と言ふつもりですか」

    「何もさうは言つてをらんぞ。女裝などといふ小細工を使はず、正面からぶつかつていけと言つてをるのだ」

    「…しかし、男である僕が告白して、果たして先輩が受け入れてくれるものでせうか?」

    「受け入れるか、受け入れないかを決めるのは増川だ。やつてみなければ判らないだらう」

     僕は動悸を抑へる爲に、胸に手を當てて、ほんの少し考へた。告白―意外にも、部長のそばにゐられるだけで嬉しくて、僕はそこら邊りを眞劍に考へてはゐなかつた。しかし、正體がバレた以上、何らかの形で決着を付けなければならないのか。有束齋先輩の言つてゐることは、結局さういふことのやうな氣がする。

     僕が答へを出すのを待つてゐるのか、有束齋先輩は茶碗を手にして黙つてゐてくれてゐるけれども、結論はなかなか出さうになかつた。氣まづくなるのを避けようとして、僕はわざと、明るいふりをして、話題を變へた。

    「それにしても、有束齋先輩も不思議な人ですよね。何だかとても古風で」

     有束齋先輩は苦笑ひし乍ら頭を掻いた。

    「儂はこれでも中學の頃は荒れてゐてのう。周りの者に寄つてたかつて、瑞穂の方の禪寺に放り込まれてしまつたんぢや。そこの和尚がまた嚴しい人でな、朝から晩まで、坐禪で鍛へられたわい。この口調は、和尚から映つてしまつたのぢや。茶や利休に觸れたのもその頃だ」

    「お寺に放り込まれてゐたつて…先輩、今一體いくつなんです?」

    「十九になる」

    「え、ええー!ぢや、部長より年上?」

    「さうぢや。しかし、お主もうつかり者だのう。儂が車の運轉をしてゐる時點で、それに氣づかなかつたのか?」

    「あ、さうか。免許とれるのつて十八からですもんね。あたしつて、馬鹿ですね…さういへば、先輩は明日も土を取りに?」

    「いかにも。お主は明日はどうするのだ?また海に行くか」

    「どうしませうねえ…男だつてことが部長にバレちやつたから、水着を着ていくのが何だか恥づかしいやうな氣が…」

    「成程のう」

     有束齋先輩はさう言つて立ち上がつた。

    「おお、増川も、江古田君も、部屋に戻つたやうだ。儂もそろそろ休むとするか。邪魔いたした」

     先輩はさう言つて、さつさと部屋を出て行つた。僕は正座をしたまま、コテンと後ろに倒れた。氣がつかなかつたけど、足が相當痺れてゐる。何だか泣きたいやうな氣分になつたけど、突然押し寄せた眠氣が、僕をつかんで放さない。