どろーわーず

track05 プラトーの日々

  1.  美術部の日常は過ぎていつた。僕はどんどん女裝に慣れ、變身にかかる時間も少なくて濟むやうになつた。放課後になつたら、僕は例の人氣の無いトイレに急いで行つて、着替へて、メイクする。美術部室へ行けば、いつもの部員たちがゐる。僕はそこで、繪を描いたり、おしやべりをしたりする。はじめのうちこそ、女の子の中に入つてバレずに上手く打ち解けられるかと心配してゐたのだが、元氣な殿間さんが言ひ散らかすことに相槌を打つてゐれば何とかなるから、案外樂だつた。

     僕は増川部長の提案で、アクリル繪の具に挑戰することになつた。アートユースに出品する本番の繪に着手する前段階として、僕はモチーフを探してゐるところだ。僕のスケッチブックは、樣々な花や建物、猫や犬などで埋まりつつあつた。それは嬉しいことだつたが、本當に嬉しいのは、それを見て増川部長がいろいろ言つてくれることだつた…。

     そんな日常のとある日、暗い廊下を驅け拔けた僕は、部室の扉を急いで開けた後、思はずつぶやいた。

    「あちやあ、やつぱりみんな歸つちやつたか…」

     その日、僕は、圖書室で調べものをしてゐるうちに、つい眠つてしまつたのだつた。あわてて服を替へて美術部へ向かはうとしたけれど、眠つてしまつて瞼がはれぼつたくなつてゐたから、シャドーを乘せるのに一苦勞し、そのせゐでさらに遲くなつてしまつた。結局僕は間に合はなかつた。

    (面倒臭いからこのまま歸つちやはう)

     入部初日に女裝のまま歸つてしまつたのは事故のやうなものだつたけれど、この頃になると僕は大膽になり、時々女裝のまま歸宅するやうになつてゐた。僕は手鏡を出して、氣になつてゐた眼の周りを整へて、部室を出た。

     學校を出て、モノレール驛へ。改札機にカードを當てたところで、僕はエスカレーターの下邊りに、不自然なものを見つけた。

    (あれ、何だらう?)

     エスカレーターの下に、見覺えのある革靴が轉がつてゐる。その先には、力なく放り出された細い足。嫌な豫感がした僕は、そちらの方へ近づいてみた。するとそこに倒れてゐたのは…。

    「ぶ、部長!」

    「やあ、ゆーちやんか」

    「やあぢやないですよ。一體どうしたんです?」

    「まあ一口に言へば、襲はれた」

     その通りだらう。部長の上着には釦がひとつも殘つてをらず、ネクタイは曲がり、目の下がアザになつて、血も少し出てゐる。僕はおろおろし乍ら部長に訊いた。

    「襲はれたつて、一體、誰に?」

    「判らん。うちの學校の生徒のやうではあつたが…僕をこの通りにした後、走つてどこかに逃げてしまつた…」

     うちの學校の生徒のやう…部長からさう聞いて、僕は咄嗟に野球部のことを思つた。頭に血が上つたけれど、今は怒つてゐる場合ぢやない。

    「とにかく、ケガの治療しなけぁ」

    「世話をかけて濟まない…時に、ゆーちやん」

    「何です?」

    「パンツ見えてゐる」

    「…エッチ!こんな時に何ですか!そんなこと、どうでもいいでせう、もう…」

     パンツが見えてしまつたのは、部長に背中を貸してあげようと、僕がかがんだからだつた。部長は、その僕の背中に手をついて、立ち上がらうとした。その時僕は氣がついた。

    (あ、部長に觸られてゐる!)

     さう思つた瞬間、僕の股間の男の部分が膨張しはじめた。そのせゐで、女の子パンツがひつつれて、喰ひ込んで氣持が惡い。

    (俺のバカ!何考へてゐる!今は早く部長を醫務室に連れていかなけれぁぢやないか!)

     怒りと恥づかしさが入り交じつたせゐで變に加速していく鼓動をおさへ乍ら、僕は先輩を擔ふやうにして、改札へ向かつた。そこへ行けば驛員さんがゐるだらう、と思つたからだけど、いざ着いてみると誰もゐない。

    「あ、ここ、無人驛でしたつけ…」

     人員削減の爲なのだらうか、このモノレール路線はコンピュータ制御で運行されてをり、それぞれの驛の中には驛員が常駐してゐないところも結構多い。いつも通學に使ふこの驛も無人化されてゐる驛のひとつだといふのを僕は忘れてゐた。學校の保健室に戻らうか、とも一瞬考へたが、他の生徒、特に野球部員に會つてしまつたら、さらに厄介だ。JRとの乘り換へのT驛なら、大きいから、手當を受けられるところがあるだらう…僕はさう考へて、先輩に言つた。

    「T驛迄行きませう。痛みますか?」

    「ああ、でも大丈夫だ。本當に、惡いな」

     僕たちはモノレールに乘つた。幸ひ、比較的空いてゐて、席も空いてゐた。電車やモノレールに乘つても滅多に座ることのない僕だけど、その時だけは、空いてゐる席に部長を座らせて、僕もその隣に腰掛けた。お互ひの肌が密着すると僕が本當は男だといふのがバレてしまふかもと思つたけれど、先輩の一大事だ、そんなことを氣にしてはゐられないと思ひ直した。

    「ねえ先輩…話しても大丈夫?」

    「うん、何?」

    「先輩を襲つたのつて、やつぱり野球部なのかしら?」

    「あれ?何故君は、僕と野球部との確執を知つてゐるんだい?」

    「あ…前に、ふーちやんから聞いたんです…」

    「さうなんだ。しかし、さつきも言つた通り、僕を襲つた奴らは僕の知らない聯中だつた」

    「でも、人を頼んで、襲はせることも出來るでしよ?」

     先輩が腫れた目で僕を見た。

    「ゆーちやんて、案外怖いこと、考えてゐるな」

    「…ねえ、先輩。何で野球部に狙はれてゐるんです?」

    「…春衣君、ゐるだろう」

     春衣さんの名を聞いて、僕は心がちくつとした。先輩は構はず話し續ける。

    「彼女、僕が新入生だつた時に、野球部のマネ狩りから助けたんだ」

    「あ、さうなんですか…」

    「そんな縁でね。彼女を美術部に誘つたのは僕さ。僕は印象派が好きでね。そんな繪を描かうと、元から美術部に入部するつもりだつたけど、あの時は別に彼女は美術にそんなに興味はなかつたみたいだから、思へばお節介が過ぎたかも知れないな。でもさ、始めてみれば、彼女繪が上手くて。安心したし、感心もしたよ」

     先輩の話を聞き乍ら、僕は何だか悲しくなつてきた。僕は先輩に會つてからほんの數ヶ月、春衣さんは二年とちよつと。先輩と春衣さんが付き合つてゐるのかどうか、それは判らない。でもこの時間差は、僕にはどうすることも出來ない現實として存在してゐる…。

    「先輩、あまりしやべると、傷に障りますよ」

     先輩の話を遮りたくて、僕はついそんな意地惡なことを口走つてしまつた。しかし先輩は、氣にしない素振りで言つた。

    「うん?ああ、でももうT驛だ」

     僕らはモノレールを降りた。先輩を擔いで、僕はJRの驛へと向かふ。乘換驛としてペデストリアンデッキで結ばれてゐるとはいへ、モノレール驛からJRの驛迄はちよつと歩かなければならない。平日乍ら、會社歸りの時間帶に當り、驛前はそこそこの人出だ。なるべく目立たないやうにし乍ら、僕は先輩をJRの驛へと運んでいつた。改札の横に、「インフォメーション」の看板を出してゐるカウンターがある。ここに相談すれば、何とかしてくれるだらうか…?

    「あ、あの…濟みませーん」

    「はいはーい、何ですか…え、これは?」

     部長の樣子を見て、カウンターの若い驛員さんも驚いたやうだ。

    「ひどいケガだ。奧に醫務室があります、すぐに治療しませう。おーい、宮田さん!」

     若い驛員さんは、名前を呼び乍ら後ろのドアを開け、部長を奧の部屋に入れた。僕も念の爲ついて行つたが、別に何も言はれなかつた。

     そこには、白衣を着た中年男がゐた。この人が多分宮田さん、お醫者さんなのだらう。男は部長を一目見るなり言つた。

    「喧嘩かい?いかんな」

    「いや、喧嘩といふより、一方的に襲はれたので…」

    「それでも氣をつけるに越したことはないさ。時に、お孃さん」

    「え?あ、はい、あたしですか?」

    「君はケガはないのかね?」

    「してゐません!」

     觸られたら困つたことになると思つた僕は、スカートを抑へて、つい大きな聲で答へてしまつた。しかし、お醫者さんの答へは淡々としてゐた。

    「それは良かつた。ケガ人をここ迄聯れて來てくれてありがたう」

     しまつた、考へ過ぎだつたかな…?さう思ひ乍ら僕がもじもじしてゐる間にも、お醫者さんは部長の服を脱がせ、あちこちを觸つたり、手をぶらぶらさせたりしてゐる。

    「うん、幸ひ、骨折は無い。顏の切れてゐる所も、そんなに深くはなかつた。アザが引く迄、二、三週間はかかるだらうが…」

     さう言ひ乍ら、お醫者さんは、部長のケガを手際良く消毒したり、部長の體に繃帶を卷いたりしてゐる。痛みをこらへてゐる半裸の部長を見てゐることにいたたまれなくなつてきた僕は、治療の樣子を心配さうに遠卷きに見てゐた若い驛員さんに言つた。

    「あの…あたし、もう行つてもいいでせうか?」

    「あ、はい。でもちよつと待つて。一應、ここに聯絡先を書いておいてくださいませんか?」

     驛員さんが、僕の前にメモ用紙を突き出してきた。僕は少し迷つて、

    「小平ゆうな」

    と、女名前を書いて、電話番号を書き添へた。驛員さんはそのメモ用紙を受け取り、輕くうなづいた。

    「わざわざどうもありがたうございました」

    「いえ、そんな。ぢや、部長、お先に…お大事に…」

    「うん、ありがたう」

     部長の聲を背中に聞き乍ら、僕は部屋を出て、一息ついた。部長やお醫者さん、驛員さんと話してゐる間にも、何とか僕が男だといふことはバレないで濟んだやうだ。それについては安心したが、しかし、先輩を襲つたのは一體何者だつたんだろう?やはり、野球部の息がかかつた奴だらうか?さう考へると、またふつふつと怒りが込み上げてきたけれど…。

    (とりあへず、家に歸らう!)

     暮れかけた道を、僕は走り出した。スカートが亂れたつて、この際構ひやしない。走つて息を切らしでもしないと、この怒りはなかなか收まりさうにないから。

  2.  朝から雨が降つてゐる。梅雨時のこんな天氣は、制汗劑を使つてもべたべたを抑へられないから、厄介だ。

     いつもの通學路を歩いてゐると、僕のビニール傘の中に、イチキンが飛び込んできた。

    「オッス、裕太郎」

    「わ、何だよ驚くぢやないか。傘持つてゐないのか?」

    「邪魔だしな。それにどうせ、お前がゐると思つてさ」

    「何だよ、それ」

    「まあいいぢやないか。それより、裕太郎、知つてゐるか?」

    「うん?」

    「今年、野球部、甲子園辭退することになつたみたいだぜ」

    「どういふことだい?」

     歩き乍ら、イチキンが説明してくれた。まとめると、かういふことらしい。うちの高校の野球部の三年生が、後輩に命じて同校のある生徒を襲はせたといふ事件が、T驛から僕らの高校に寄せられた聯絡によつて明るみに出た。首謀者の三年生は退部、實際に手を下した後輩は謹愼の處分が下り、野球部自體は甲子園への豫選出場を辭退することになつたさうだ…。

    (先輩が襲はれた事件のことだな…)

     僕はいい氣味だと思つた。

    「さあこれで、俺も晴れて野球部に入部出來るな」

     イチキンが言ふ。

    「え、何で今更?」

    「野球部の惡い噂は、受驗の時から知つてゐたんだ。マネ狩りの話とかさ。そんな先輩のゐる部なんか、入りたくないだらう?でもこれで膿が出たなら、もう氣にすることはないさ」

    「…さうか。がんばれよ」

    「それはがんばるけど、お前はどうなのさ?」

    「え、僕?」

    「結局、美術部、入らなかつたんだらう?毎日早く歸つちやふみたいだけど、一體何をしてゐるんだ?」

     考へてみれば、僕が「女の子」として美術部に入部したことを、イチキンは知らない。

    「や、高校生になつたんだからお前も家事手傳へつて、姉ちやんがうるさくつてさ…」

    「成程それでか。お前んとこも、いろいろ大變だなあ」

    「うん、分不相應に家なんか買ふからかういふことになるんだつて、時々母さんが愚癡をこぼしてゐるよ…」

     僕の家はF町にある一軒家だ。折角家を手に入れたといふのに、父さんは仕事で海外赴任、母さんはローンの支拂ひの足しの爲にとあるお屋敷で住み込みの家政婦をしてゐる。だから今、僕ら家族の家には、普段は僕と姉ちやんしかゐない。そんな譯で自然と、僕も姉ちやんも、一通りの家事はこなせるやうになつた。

     でも、イチキンに言つたことは嘘だ。僕は何だか申し譯なくなつて、黙つてしまつた。

    「お前が家事をがんばるなら、俺も明日から野球がんばるぞ!」

     イチキンが大きな聲で言つたので、僕は顏を上げた。

    「がんばるつたつて、どのみち甲子園には行けないんだらう?今年は」

    「だからこそ、じつくり練習が出來るぢやないか」

     僕はつい吹き出してしまつた。

    「すごいポジティブシンキング」

    「だらう?さうとでも思つて、來年に賭けるさ」

  3.  處分が早かつたせゐか、野球部の事件は、僕らの學校に大きな影を落とすことはなかつた。毆打された生徒が誰かといふことも特に公表されることはなかつたので、怒り、悲しみ、溜飮を下げたのは、僕ら美術部員だけだつた。

    「でもねー、部長にもいけないとこ、あると思ひますよー。考へなしだから」

     部室で、増川部長の繃帶を直し乍ら、殿間さんが言ふ。

    「考へなしとは手嚴しいねえ。しかし、どこが?」

    「三年聯續であんなことをしたら、目を付けられて當然でしよ」

     そばで見てゐた僕とふーちやんは顏を見合はせた。

    「殿間先輩、三年聯續と言ふことは、もしかして殿間さんも部長に助けられたんですか?」

    「うん、さうよ」

    「へえー…」

     部長つて、やつぱり、男らしいや…僕は頬が火照つてくるのを感じた。目ざとくそれを見つけたのか、殿間さんが、繃帶を持つ手を止めて、僕に向かつて言つた。

    「あれ、ゆーちやん、どうしたの?もしかしてあたしも増川部長に助けられたかつたな、とか思つた?」

    「え?あ、いえ、そんな…」

    「あーでも嫌んなつちやふ!あんな野球部、なくなつちやへばいいのに!」

     殿間さんがさう叫んだので、僕は言つた。

    「でも、惡い先輩はもうゐないんでせう?大丈夫ですよ。それにね、今度、穴一つていふ、一年だけどすごい子が入るんですよ。豪速球ピッチャーの」

    「え?ゆーちやん、何でそんなこと知つてゐるの?」

    「あ、え、えーつと、そんなことをクラスの子が話してゐました…」

    「さうなんだー。でも本當にさうなら、野球部もちよつとはまともになるかも知れないね。全く、昔調子が良かつたからつて、威張つちやつてさ、もう」

    「増川、ケガの具合はどうだ」

     會話に割り込んでくるいきなりの胴間聲。有束齋先輩だ。

    「あ、もう大分いいよ」

    「さうか、それならよろしい」

     有束齋先輩はさう一言言つただけで、いつもの奧の部屋に引つ込んでしまつた。

    「あれだけ?冷たい奴!」

     殿間さんが怒つたが、部長は何だかにやにやしてゐる。

    「さう怒るなよ、シュー。今年は、あいつのおかげで、ちよつと面白いことが起こるんだ」

    「ふうん。興味ないけど。でもそれつて、いつ頃起こるの?」

    「夏休みだな」

    「あ、さう。それぢや部長、それ迄にケガ直さなくつちやね!」

     さう言つて、殿間さんは、部長をポンと叩いた。アザか何かに當つたらしく、部長は、普段のクールさに似合はない奇聲を上げた。僕も、ふーちやんも、つられて笑つてしまつた。全く、殿間さんときたら、いつもかうだ。しかし、ちよつと面白いことつて、一體何なんだらう?