どろーわーず

track04 映して、鏡

  1.  六月のある日の放課後。僕は學生鞄と、もうひとつ紙袋を持つて、體育館の裏にゐる。紙袋の中には、女子の制服と下着類、簡單な化粧道具が入つてゐる。さう、美術部への入部願ひを、今日こそは決行するのだ。

     體育館の裏手のトイレはあまり人が來ないといふのはあらかじめ調べ濟みだつたので、僕はそこで着替へ、化粧をした(一應斷わつておくけれど、もちろん男子トイレで)。校則ぎりぎり迄伸ばした髪をゴムで縛つて「ツインテール」にしてみる。鏡を見て、顏の出來具合を調べ、一度くるりと囘つてから、僕はつぶやいた。

    「これで大丈夫かな…」

     ここから美術部室まではかなり距離がある。途中で誰かに會つたらどうしよう…僕は不安になつた。でも、ここでひるんではダメだ、と思ひなほした。

    (僕…ぢやない、あたしは女の子。先輩が好きです)

     薄汚れた鏡に小さくつぶやいて、僕は美術部室へ向かつた。歩き乍ら、膝が激しく笑つてゐるのが自分でもよく判つた。心臟もドキドキしてゐるけれど、それが女の子の格好をしてゐる恥づかしさのせゐなのか、先輩に會ひに行く緊張のせゐなのかは、正直よく判らなかつた。

     美術部室の扉の前で、あらためてもう一度呼吸を整へ、思ひ切つてそれに手をかけた。扉の中を覗いてみれば、イーゼルを立て、筆を走らせてゐる人がゐる…あの先輩だ。

    「こ、こんにちは」

     先輩は描いてゐる繪から目を上げずに言つた。

    「うん?何の用?」

    「あのー、美術部に入りたくて…」

    「これはまた隨分遲い入部希望者だな」

     先輩はやつとキャンバスから目を上げて、こちらをちらりと見た。ああ、僕が男だつて、バレてゐないだろうか…ものすごく恥づかしい!

    「ま、君みたいなかはいい子なら、入部大歡迎だよ。名前は?」

     僕はここで女名前を出した。

    「あ、小平…小平ゆうな、です」

    「そつか。ぢやあゆーちやんとして覺えておかう。僕は増川といふ、美術部の部長をやらせてもらつてゐる。直皆も來るだらう。常々不思議に思つてゐるんだが、女つていふのは菓子がないと動かない生き物らしいね。君はどうなんだ?」

    「は?い、いえ、はい…あの、今ダイエットしてゐて…」

    「ふうん?その細さでねえ」

     そんなことを話してゐたら、突然扉がガラリと勢ひ良く開いて、女の子が入つてきた。身長は百五十センチぐらゐだらうか。色の薄いぐしやぐしやの卷き毛が肩迄伸びてゐて、手にはコンビニ袋を提げてゐる。その子は一直線に増川先輩の方に歩いて行つた。

    「先輩ただいまー。『俺達の』シリーズがあつたから、先輩の分も買つてきましたよ」

    「俺達の、何だ?」

    「俺達のガーリックプディング」

    「げー、ぞつとせんなあ。あ、だからつてこの子に勸めてはダメだ、今ダイエット中ださうだから」

     先輩は繪筆で僕の方を指した。その女子が僕の方に近づいてきた。襟に二年の徽章が光つてゐる。

    「まあかはいい。もしかして新入部員?名前は?」

    「小平ゆうな君だ。僕はゆーちやんと呼ぶことにした」

     僕が答へるより先に、部長がさう言つた。

    「あら、さうなの?ぢやあたしにもゆーちやんと呼ばせてね。あたしは殿間秀子、よろしくつ!あなた、畫家は誰が好きなの?あたしはねー、シュルレアリスムが好きなの」

    「おいおい、初めての挨拶でいきなりそれはないだらう。大體、シュルレアリスムが好きつたつて、それはシューがろくにデッサン出來ないからぢやないのか?」

     部長が笑ひ乍らさう口を挾んだ。殿間さんは人差し指を立て部長の方に向き直り、ムキになつて言ひ返した。

    「いいこと部長、タンギーやエチャウレンは、確かにさうだつたかも知れないわ。でももともと、キリコなんかはめちやめちや繪が上手くて、それに飽き足らなくてああいふ繪を描いたのよ。それにダリなんか、作品によつてはほとんど寫眞にしか見えないわ」

    「それこそ、釋迦に説法つて奴だな。口上はいいから、一枚ぐらいはまともな繪を仕上げろよ、シュー」

    「んもうつ!」

    「パーキャーうるさいぞ。それはここが女の園だといふことは飮み込んではゐるが、もう少し何とかならないものかね」

     突然、底力のある男聲が聞こえてきて、僕は驚いた。この部、部長以外の男子もゐたのか?

     聲の方を見ると、黒い作務衣を着た、姿勢のいい男の人が、險しい表情をして立つてゐた。殿間さんがふざけた調子で言ふ。

    「あ、ネクラ野郎がダンジョンから出てきた」

    「誰がネクラ野郎だ。釉藥をかけるぞ」

    「まあこはい。ゆーちやん、このこはい人が、ネクラ野郎こと南架有束齋」

    「ゆーちやん?それはお主のことか?何でここにゐる」

     何だか氣おされてしまつて、僕は小さな聲で答えた。

    「あ、あの…はじめまして…あたし、小平ゆうな…新入部員です…」

    「何、新入部員とな?よろしい、儂がネクラかさうでないかは、これを見て決めてもらはうではないか」

     有束齋と呼ばれたその先輩は、僕の手を引つ張つて奧の部屋へ聯れて行かうとした。僕は焦つた、こんなにためらひもなく手を握られるなんて、まさか僕が男だつてバレてゐる…?しかし、その優しさのない力加減からすると、單に強引なだけのやうな氣もする。落ち着け、落ち着け、あたし…そんな風に心の中で繰り返してゐる内に、僕は有束齋先輩の聖域――部室に付屬した、もうひとつの小さな部屋へと引つ張り込まれてゐた。

     そこの内部は誰かの手によつてかなり改修されてゐることが明らかだつた。目を引くのは、部屋の眞ん中に轆轤がしつらへられてゐるところだ。壁際には木製の棚があつて、茶碗のやうなものが澤山竝べられてゐる。部屋全體の雰圍氣に何だかそぐはない白いカラーボックスの中には大型本が詰まつてゐて、その背表紙には「茶道」とか「利休」の字が竝んでゐるのが見えた。

     部屋を見渡して、僕は言つた。

    「先輩つて、陶藝をする人だつたんですね」

    「左樣。今ではこの部でも、作陶するのは儂だけになつてしまつたがのう」

     先輩はカラーボックスから一册の本を取り出した。

    「いづれお主も日本史の授業で習ふだらうが」先輩は本のページをめくり乍ら言つた。「千利休は茶道の祖と言はれてをる。利休以前にも、遊山の場では茶が賣られ、また席を設けて茶の産地を當てあふといつたやうな遊びはあつた。しかし、利休は茶の席を主客の交はる一期一會の場として捉へたのだ。その席にしても、とかく華美に傾きがちなところを、彼は一切の裝飾を廢し、その何もない境地の中にかすかな美を見いださうとした。この『わび』の思想は、利休が開發したものだ。儂は、そんな利休がもし生き返つたら氣に入つて使つていただけるような器を作らうと、この部で日夜研鑽してをる」

     先輩は言ひ終へて、開いた本のページを僕の方へ向けた。そこには利休の肖像が印刷されてゐた。成程、有束齋先輩に少し似てゐるみたいだ。

     やうやく落ち着いてきた僕は、有束齋先輩の眼を見乍ら言つた。

    「素敵ですね。でも、そんなすごいこと、あたしに出來るとは思へないな」

    「いや別に、お主に陶藝をやれと押し付けてゐる譯ではない、單に見てもらひたかつただけだ。それにしてもいささか妙だな」

    「何がです?」

    「今のやうな話は、女子の受けは良くない筈なのだが」

    「い、いえ、女の子にも、興味を持つてもらへる話だと思ひますよ」

    「さうだらうか?」

    「こらー、いつ迄二人きりでひとつ部屋に閉ぢこもつてゐるんですかー、いやらしい!」

    「いやらしいことがあるものか!」

     有束齋先輩はさう吠えると、頭を掻いて、しかめ面をした。

    「全く、殿間はうるさいのう。では一旦出るか。小平…でよろしかつたな?ゆーちやんなどとは、よう呼ばぬからのう」

    「はい」

     僕と有束齋先輩が部屋から出てみると、お菓子の袋や容器を前にして、部室に女の子が二人座つてゐた。一人は勿論殿間さんだ。彼女は僕に訊ねてきた。

    「ゆーちやん、本當にいやらしいことされなかつたの?筆でさはさはとか」

    「くだらん。作業に戻るぞ」

     有束齋先輩は怒り乍ら部屋に戻らうとした。僕は狼狽した。

    「あ、あの、有束齋さん…」

    「いや、儂に構ふことはない。獨人土をいぢるのは毎日のことだからな。さ、お主はまだ自己紹介の續きがあるだらう」

     さういへば、さうだつた。殿間さんの隣に座つてゐるのは入學式の日に増川部長が助けた女子だといふのがすぐに判つた。僕はその子のところに行つて、挨拶した。

    「こんにちは、はじめまして」

    「小平ゆうなちやんね?みんなから聞いたよ。あたしは廣田楓子」

    「よろしくお願ひします、廣田さん」

    「やだ、同じ一年なんだから、ふーちやんでいいよ。あたしもゆーちやんて呼んでいいよね?」

    「う、うん」

    「それにしても細いわねー。なんだか男の子みたい」

    「…」

     僕は黙つてしまつた。またバレたかと思つてしまつたからだけど…いちいち氣にし過ぎだらうか、僕は?

    「ゆーちやん、どうしたの?怒つた?」

     ふーちやんの聲で僕は我に歸つた。

    「ううん、怒つた譯ぢやないけど…男の子みたいつて、よく言はれるから、ちよつとね」

    「そつかー。ごめんね」

    「ううん、いいのよ…」

    「よし、とりあへず、皆それぞれ名前を言つたな。それぢや、ゆーちやんも美術部に入部したのだから、早速繪を描いてもらはう」

     増川部長は、棚から石膏像を下ろしてきて、机の上に据ゑた。僕には大きな紙と、何だか黒い棒状の物を手渡してくれた。

    「何ですか、これ」

    「木炭だよ。これで石膏像をデッサンしてみてくれ」

    「はい、でも…」

    「上手く描かうなんて思はなくていいさ。誰でも始めは上手くいかないものだから。細かいところは無視して、まず全體の形を大づかみにすることから始めよう」

     僕は椅子に座り直して、石膏像を描き始めた。部長のアドバイスなんだからちやんと守らう、さう思つたのに、細部が變に氣になつてしまつて、紙の上には何だか謎の石ころのやうなものが出來上がりつつある。妙な焦りを感じ乍ら木炭を走らせてゐると、後ろから聲がした。

    「あら、うまーい」

    「本當。なかなか上手…」

     先のは殿間さんの聲だが、その次のは?僕は振り返つた。殿間さんと竝んで、あの髮の長い先輩が、僕の描いてゐる繪を覗き込んでゐた。

    「あ、あの、あまり見ないでください…」

     さう僕は言つたのに、その人は、答へもせずに増川部長に話しかけた。

    「この子、誰?新入部員?」

    「あ、うん。小平ゆうな君だ」

    「ああ、さう。ぢや、あたしは用があるから、これで」

     さう言つて、その人は、早々に部屋を出て行つてしまつた。あれ、隨分冷たい感じの人だな、と、僕はめげさうになつたが、他のみんながそれ程氣にしてゐなささうなところをみると、普段からあんな感じなのかも知れない。

     僕は繪を描き乍ら訊ねてみた。

    「部長、今の方は?」

    「僕と同級で、江古田春衣君といふ」

    「さうですか…」

     部長とはどのやうな關係なんですか?…正直、さう訊ねてみたかつた。しかし、初日からそんなことを訊ねたら、何だか變に思はれるかも知れない。これから先にも機會はあるさ、僕はさう思ひ込んで、努めて氣持を落ち着けるやうにし乍ら繪を仕上げていつた。

    「部長、一應、描けましたけれど…」

     僕は部長のところに繪を持つて行つた。

    「上手だよー!」

     間髮を入れず、殿間さんが叫ぶ。

    「シュー、いちいち言はないでいいからさ。どれどれ…」

     部長が僕の繪を見てゐる。何だかどきどきする。部長はしばらく眼を細めてゐたが、やがて大きくうなづき、言つた。

    「なかなか良く描けてゐるな。君もアートユースに出してみないか?」

    「あ、ぢやあ、先輩も狙つてゐるんですね?」

    「お、アートユース知つてゐるのか?流石調べてゐるねえ。うん、出すよ。シューも出すよな?」

    「えー、あたしー?だつて、あたしの才能が判る審査員がアートユースにゐるのー?」

     増川部長が吹き出した。

    「全く、その自信は、一體どこからくるんだらうね。さてと…ゆーちやん、はじめて盡くしで疲れただらう。今日はもう歸つていいよ」

    「え?あ、はい…」

     もう少し部長とゐたい…それが正直な氣持だつたけれど、部長が氣を使つてくれてゐるなら、それを受けたはうがいい、と僕は思つた。石膏像を棚に戻して、邊りを片付け、僕は言つた。

    「ぢや、これから、よろしくお願ひします」

     殿間さんが僕のところに飛んできて、ほとんど抱きつくやうに僕に寄りかかつてきた。

    「こちらこそ、よろしくね!」

     僕はびつくりした。かういふ人なんだらう、はしやぎ屋で、ボディータッチに抵抗のないタイプ。しかも殿間さんには、僕の祕密がバレてゐない。同じ女の子と思つてくつついてきたのだらうが、僕は女の子の柔らかさが突然密着してきたせゐで、心ならずも硬直してしまつた…。

    「あ、はい、よろしく…」

     しどろもどろになり乍ら、僕は殿間さんを引き剥がし、荷物を取つて扉を急いで開けて外に出、呼吸を整へた。深呼吸をし乍ら、僕はあらためて氣づいた。

    (先輩と話しちやつた…)

     僕は心の中でもう一度繰り返す。

    (先輩と話しちやつた!)

     突然、周圍の空氣が、桃色に染まつたやうな氣がした。

    (わーい!先輩と話しちやつたー!)

     それから先のことは、正直、よく覺えてゐない。氣がつくと僕は、家の玄關に辿り着いてゐた。

    「ただいまあ…」

    「ゆーか?お歸り…」

     エプロンを着けた姉ちやんが出てきたけど、

    「お?ふふ、やるぢやん」

    と言つて引つ込んでしまつた。

    (何だらう、變なの…)

     さう思ひ乍ら、僕は自分の部屋に入つた。そこではじめて氣がついて、僕は青くなつた。僕は、女の子の恰好のまま、家迄歸つてきてしまつてゐたのだつた。