姉ちやんに監視される日々が始まつた。學校から家に歸ると、僕はすぐに化粧をして、女の子の服に着替へなければならない。姉ちやんが家にゐれば姉ちやんに着させられるし、たとへ姉ちやんが外出してゐても、歸つてくるとすぐチェックされるのだから氣が拔けない。
服は姉ちやんの見立てで、毎日スカートばかり着せられた。何故だらう、世の女の人はレギンスを穿いてゐたりするのに?恥かしさもあつて、僕はその理由を姉ちやんに尋ねてみた。姉ちやんの答へはかうだつた。
「スカートの方が男受けがいいんぢやない?ゆーは足も細くて綺麗なんだから、この際見せていきなよ。それに、十何年か男として通してきたんだから、女の子つぽくなる爲には、それなりの荒療治でいかなけぁ」
さう言はれたからには頑張るしかなかつた。スカートだと、最初のうちは、何だか下に何も着てゐないやうな氣がして違和感と不安感があつたけど、だんだんと慣れていくうちに氣にならなくなり、動きやすくていいこともあるなと迄思ふようになつてしまつた。
そんなこんなで一ヶ月程が過ぎた。五月の聯休中のある日、姉ちやんが僕に言つた。
「明日、ヒマ?」
「まあヒマだけど…」
「ぢや、あたしに付き合つてよ」
嫌な豫感がする。
「それつて、もしかして、女裝で外へ出るつていふこと…?」
「さうだよ。そろそろ、行けるんぢやない?」
遂に來たか。僕は震へた。家の中で女裝することにどんなに慣れたと言つたつて、その姿を公衆の面前に晒すといふのはまた別の話。果して僕は、女裝で表に出て、平氣でゐられるのだらうか…?
姉ちやんは紙の包みを取り出した。
「はいこれ、あげる」
「…?」
「開けてみな」
僕は包みを開けてみた。包みの中から、僕の通つてゐる學校の、女子の夏の制服が一揃ひ出てきた。襟と袖口に縁取りのあるシャツ、臙脂のリボン、様々な青の階調のタータンチェックのスカート…。
「こんなもの、一體どこで?」
「別にいかがはしい店に行つた譯ぢやないよ。I百貨店の中に『なんちやつて制服』の店があるのよ。そこに注文したら、作つてくれた」
「さうなんだ…」
かういふ服、本物の女子が着たなら屹度かはいいんだらうが、それをこの僕が着るのか。それにしても…。
「姉ちやん…」
「何だ?」
「これ、スカート短すぎない?」
「いや。短い方が緊張感あるだらう?これ迄練習してきたスカートさばきの成果を實地で出すんだ、ゆー!まづは一囘着てみな」
僕はしぶしぶ、姉ちやんが調へてくれた衣裝一式を持つて自分の部屋に入り、着替へ始めた。
「姉ちやーん」
「何だー?」
「ブラが白でパンツが花柄つて變ぢやない?」
「萬が一、下が見えちやつた時は、花柄の方がもつこりが目立たないんぢやないかな?」
「うーん、さうかな?」
「ブラちやんと着けなよー。乳首が透けちやふぞー。見えちやふとみつともないぞー」
「判つてゐるよー」
そんなことを言ひ乍ら、一通り服を着て、ついでに少しメイクも直して、僕は姉ちやんの前に出てみた。
「ど、どうかな…?」
姉ちやんが指を立てて言つた。
「バッチリ、かはいい!」
さう言はれると、正直惡い氣はしない。でも…。
「ヤッター。ぢやあ、もう寢ようつと」
「え?まだ八時ぢやないか」
「いいのいいの。それぢやお休みなさーい。明日起してねー」
僕は洗面所に行つてメイクを落とし、齒を磨いて、部屋に歸つて服を脱いで下着を替へ、ベッドに倒れ込んだ。姉ちやんの前ではふざけて隱してゐたけれど、この異常な照れ臭さ、無理にでも寢ないと收まりさうにない。
次の日、僕と姉ちやんは、揃つて家を出て驛前の繁華街へと向かつた。僕は昨日の晩に合せたミニの制服、姉ちやんはパンツスタイルの黒いスーツをビシッと決めてゐる。姉ちやんの恰好、何だかずるいな、と僕は思つた。女らしさを極力消してゐるみたいだつたから…しかし、とにかく何が起こるか判らないのだから姉ちやんに大人しくついていくしかない。人が僕らを見たらどう思ふだらう、ちやんと「姉妹」に見えてゐるのかな…。
モノレールとJRの乘換驛のT驛のコンコースは、休日といふこともあつてとても混んでゐる。ここは僕が通學でいつも通る場所だけれども、それだけにこんな恰好で來てしまつたことが、何だか怖い感じだ。足もすくみがちになつて、氣がつけば僕は先を行く姉ちやんから大分遲れてゐた。
「おーい、早く來なよ」
姉ちやんが、ちよつと怒つた感じで僕を呼んでゐる。
(うーん…もういいや!)
僕は意を決して、スカートの裾を兩手で握り、少し前かがみになつてコンコースを驅け出した。人混みをすり拔けて、待つてゐた姉ちやんのところに辿り着き、走つて亂れた息を整へる。右手は胸に當て、左手でスカートの裾を抑へて…。
「今の、なかなか良かつたよ」
「ハア、ハア…良かつたつて?」
「走り方がさ。女の子つぽかつた」
「さうかなあ。ねえ、姉ちやん、あまり先に行かないでよね。ところでこれからどこ行くの?」
「映畫觀に」
「…」
「どうしたんだよ、映畫嫌か?劵はあたしが奢るよ、それにゆーが好きなの觀ていい」
「え、いいの?ああ、良かつた」
「何だよ、良かつたつて」
「姉ちやんのことだから、ホラーか何か觀せて、あたしに男聲を出させて樂しまうとしてゐるのかと思つた…」
僕は姉ちやんに小突かれた。
「かはいい妹に、あたしがそんなことすると思ふのか?」
「矛盾してゐる!絶對矛盾してゐる!」
「ああー、もう。どうでもいいから、館へ急ぐよ!」
さういへば、女の子つぽくする練習の中で、姉ちやんは聲についてはあまり何も言はなかつた。女の人でも、妙に聲の低い人はゐるし、ルックスのはうを完璧にしておけば聲を作ることは別に必要ないといふのが姉ちやんの意見らしかつた。でも僕は、見かけだけで勝負するのが何だか心もとなかつたので、自分なりに女の子みたいな聲の出し方の研究をしてゐた。我乍ら、少し作り過ぎか、といふ気もしてゐるけれど、別に姉ちやんからツッコミも入らないと言ふことは、そんなにをかしくもないのかも知れない。
驛から五分程歩いたところにある映畫館の大きなビルは、所謂シネマコンプレックスと言ふやつで、このビルの中だけで大小合せて五つの映畫館が入つてゐる。樣々なタイプの映畫がそれぞれの館で同時に上映されてゐる譯だから、館に集まつてくる人々も親子聯れ、學生風、カップル、をぢさん・をばさんと樣々だ。そんなお客の群れに、僕たちも、上手く混ざれてゐるのかな…。
出入口のそばの、各映畫のポスターと上映スケジュールが掲示されてゐるコーナーの前に、僕らは立つた。
「ほら、ゆー。何觀るの?」
「えーと、ぢや、あれにする」
僕は「剛性獸クロメリオンTHE MOVIE」のポスターを指差した。巨大ロボットものの、アニメ映畫だ。
「へえー、クロメリオンて今頃映畫になつたんだ。いいよ、觀に行かう」
二階のチケット賣り場で劵を買ひ、上の階の映畫館へ直通する長いエスカレーターに乘つた時、姉ちやんが耳元に囁いてきた。
(上りエスカレーターに乘つた時は、ちやんとお尻を抑へること)
僕はハッとしてスカートに手をやり、ちらつと振り返つてみた。下にゐる學生風の男の人が、少し顏をそむけたやうな…。僕は赤くなつてしまつた。
(氣をつけなよね。男はみんなスケベなんだから)
(姉ちやん、僕も、男)
(あ、さうか)
そんな會話の後で、僕にピンチが訪れた。恥づかしさを何度か感じたせゐで、僕のアレは膨張と收縮を繰り返してゐた譯だけれども、さうなると、當然の生理現象で、かうなつてしまふ…。
(姉ちやん…トイレ、行きたくなつちやつた…)
(…それはちよつと困つたな)
(どうしよう…)
(しやうがない。男子トイレだね)
(えつ、この恰好で?)
(だつて、もし女子トイレに男が入つたのがバレたら、大問題になつちやふよ)
折角エスカレーターで上がつたのだけれど、姉ちやんに聯れられて、僕らは階段を一階分降りた。姉ちやんの後についていくと、トイレが見つかつた。
「ここ、中間階だから、あまり人が來ないのよ。男子トイレにも、個室つてあるのよね?」
「…うん」
「ぢやあ、男子トイレに堂々と入つて、個室に入つて用を足して、堂々と出てきなさい」
姉ちやんが僕のお尻をポンと叩いた。かうなつたら、後には引けない。幸ひ誰もゐないみたいなので、僕は姉ちやんに言はれた通りに、個室に入つて用を足して、手を洗つて出てきた。この間誰にも會はなかつたのは幸運だと言へるだらう。
「すつきりした?」
「うん」
「確かに、この件だけは、ちよつと問題だなあ。女子トイレに入つてぁいけないつてのは絶對だけど、あんまり水を飮まないやうにするとか、工夫が必要かもね」
「さうだね…」
そんなことを言ひ乍ら、僕らは階段を使つて、五階に戻つてきた。劵に記されてゐる席に落ち着き、暫くすると映畫が始まつた。
僕は何かしら安心した。映畫館の暗闇の中なら、とりあへずは人の目を氣にしなくて濟む。剛性獸の戰ひを觀乍ら、しばらくは氣を落ち着けてゐることにしよう…。
映畫を觀終はつて、少し休まうといふことになり、僕と姉ちやんはドーナツのお店に入つた。レジで注文を言ふと、姉ちやんは、席を取つておくからと言つて先に行つてしまつた。
僕と姉ちやんの分のドーナツと飮み物の乘つたお盆を持つて、見渡すと、窗際の席に姉ちやんの後ろ姿があつた。僕は少しむくれ乍ら、姉ちやんの隣の席にお盆を置いて座つた。姉ちやんは、ありがたうを言ふこともなく、珈琲を取つて一口啜ると、つぶやくやうに言つた。
「ん、ちやんと出來てゐるな」
「何が?」
「座る時に、足を開いてゐない」
「だつてそんなことをしたら見えちやふ…」
さう言ひかけて、僕は愕然とした。この席、前が硝子張りで、しかも目隱しも何もないぢやないか!今着てゐる制服のスカートは相當のミニなのだ。僕は焦つた。
「姉ちやん、ここの席に座つたの、まさかわざとぢやないよね」
「ピンポーン」
「ひどい…ひどすぎるよ…」
「何言つてゐるんだよ。女の子になりきるには、これくらゐ氣を使はなけぁ、つてことさ」
「それは判つてゐるけどさあ…」
僕はドーナツに噛み付いた。何だかもやもやした氣分を、ドーナツの甘さが少しだけ癒してくれた。
「さてと。次はどこ行く?」
僕は殘つてゐたドーナツを口の中に放り込んで、少し考へた。
「…姉ちやん、畫材店に行つてみない?」
「畫材店?」
「だつてこれから美術部に入るんだもん。さういふのについても、少し勉強しておかなくてぁ」
「成る程ね。ぢや、行かうか」
僕らは立ち上がつて、お盆を返しに行つた。氣がつくと、男の人がちらちらと僕らを見てゐる。嫌な人だなあ、その人、女の人と一緒に來てゐるのに。でも…と、僕は思ふ。もしも僕が、今日みたいに女裝して街へ出るなんてことをしてゐなかつたら、そんな視線には氣がつかなかつたかも知れないな…。これからは自分も氣をつけなければ、と僕は思つた。
火星堂は有名な畫材店で、何でも本社は新宿のはうにあるらしいが、この街でも新しく建つたビルの中にそこそこ廣い店舗が出來てゐるといふことだつた。今迄縁も興味もなかつたお店、そこへ初めて行つてみる。一體どんな所なんだらう?
エレベーターを降りてすぐに目に入つた畫材店は、とてもカラフルだつた。文具店に似てゐるけれどそれよりも大きくて、今迄見たこともないやうな道具類が澤山置いてある。僕は何だかわくわくした。
店の中に足を踏み入れてみると、通路が意外と狹い。そしてお客さんには女の子が結構多い。これは大變だな、と思ひ乍ら、僕と姉ちやんは棚を流し見した。姉ちやんが、その棚のひとつを見つめて、ふと立ち止まる。
「何だらうね、この道具?」
姉ちやんが指したものは一見したところ筆に似てゐるが、先端に毛の束ではなくスポンジが付いてゐる。そばに貼られてゐる解説を見て、僕は見當をつけた。
「パステル…を伸ばす時に使ふみたいよ」
「ふうん。何だか化粧道具みたいだな。しかも、ずつと安い…」
僕は思ひつきを口に出してみた。
「繪が上手い人つて、お化粧も上手いんぢないかしら?どちらも、道具を使つて色を操る譯だから」
姉ちやんは笑つた。
「いつぱしのことを言ふぢやないの。だつたら、一擧兩得ぢやん。もつともつと女の子らしくなれば、美術部に入つてもやつていけるんぢやない?」
「さうだね…」
急にしをらしくなつた僕を見て、姉ちやんはいぶかしく思つたのかも知れない。僕から離れて、他の棚に移つていつた。僕は僕で、店の中をぶらぶら歩く。壁に貼られた大きなポスターが、ふと目に入つた。
「アートユース 多摩高校生美術選」
美術の公募案内だった。先輩も出すのかな…何氣なくさう思つたあとで、僕は何となく氣恥づかしくなる。本當に、最近の僕は、先輩のことばかり考へてゐるなあ…。
途端に、頭をぽこりと叩かれた。
「いやあん!」
姉ちやんが來て、笑ひをこらへてゐる。
「上出來だつたなあ、今の」
「もう、何よ…」
膨れる僕に、姉ちやんは一枚のカードを手渡した。
「何、これ?」
「このお店のサービスカード。レジに出せば、二十パーセントオフになるんだつて。持つとけば?」
「いいの?」
「うん」
「ありがたう…」
「よし、ぢや、歸らうか」
やつた、これでやつと解放される。家に歸つたら、濡れたパンツを、一刻も早く着替へないと…。