僕が通ひはじめた高校はモノレールの驛から歩いて二十分程のところにある。通學生のほぼ半數ぐらゐがこの路線と驛を利用してゐるやうだ。入學式の次の日の朝、そのモノレールの驛を降りて、學校にたどり着くと、校門の邊りが何やら騷がしい。見れば、いろいろなユニフォームを着たり、扮裝したりなどした先輩方が澤山ゐて、通學してくる生徒を盛んに呼び止めてゐる…さうか、部活の勸誘をしてゐるのか。
僕はスポーツが好きぢやない。生まれつき運動神經がそんなに良くないのは自覺してゐるし、身長が百六十センチ位しかないから體格的にも不利だ。だから僕は、うるさい勸誘を迷惑なことに感じて、校門の端を俯くやうにし乍ら小走りに通り過ぎた。
しかし僕の危機は校門をくぐり拔けただけでは終らなかつた。校舎の中に入つても、あちらこちらの壁に模造紙に大書された勸誘の文句が貼つてある。
(何だか憂鬱だな…)
さう思ひ乍ら廊下を行く僕の目を妙に引きつけるものがあつた。
(これは…?)
それも澤山ある勸誘の貼り紙の中のひとつだが、隨分と小ぶりだ。しかしそれには、かなり緻密な校舎の繪が描かれている。下の方に小さく、綺麗にレタリングされた文字で、
「美術部」
とあつた。
(あ、まただ…)
昨日會つた美術部の先輩の笑顏がまたフラッシュバックした。この繪、もしかして、あの先輩が描いたのかな、さういへばあの時、先輩の名前訊かなかつたな…。
(先輩に會ひたいな)
僕がさう思つた瞬間、何だか足がガクガクし始めた。何だこれは、一體、僕はどうしちやつたんだらう…?
「何ボケッと突つ立つてゐるんだよ、お前」
聲をかけられて僕は我に歸つた。振り向けば、そこにイチキンがゐた。
「あ、いや、その…」
「そこの貼紙を見てゐたのか?」
イチキンは僕の肩越しに壁を見た。
「美術部の貼紙か…うーん、流石に、よく描けてゐるもんだなあ。しかし、こんな小さくて地味な貼紙で、新入部員が集まるのか?」
「何言つてゐるんだイチキン、絶對集まるよ、部員!」
僕は自分で自分の聲に驚いてしまつた。何で、こんなにムキになつて、大きな聲を出してしまつたんだらう?イチキンも驚いたやうだつた。
「お、おい、怒るなよ。變な奴だなあ」
「あ、ご、ごめん。でも、怒つた譯ぢやないんだ…」
僕らは竝んで教室へと向かつた。何だかとても、バツの惡いやうな氣がした。
晝休み、校舎内はくつろぎのひと時に賑はつている。僕はパンの包みを持つて、購買部から出てきた。朝の勸誘の續きも、また校内のあちらこちらで繰り廣げられてゐた。
なるべくそれを見ないやうにし乍ら歩いてゐた僕は、渡り廊下の邊りで、ふと足を止めた。
(あれは…?)
古いポプラの木陰に例の美術部の先輩がゐた。先輩をまた見ることが出來て、僕は嬉しく思つたけれど、でもその時の先輩は一人ぢやなかつた。
先輩の隣に髮の長い女の人がゐる。制服を着てゐるのだから、無論僕らの先輩だらう。眼鏡をかけてゐて、色が白く、胸もそこそこあつて…遠目で見てゐても、美人であることがよく判る。
僕は胸の邊りに痛みを感じた。あの先輩、まさか、彼女がゐたなんて…?僕はさう思つたけれど、よく見てゐると、先輩とその女の人とは、どうも口論をしてゐるやうだ。
僕はしばらくその樣子を見てゐたが、見てはいけないところを見てしまつたやうな氣がして、そこからそつと離れて行つた。何となくムシャクシャして、僕はアンパンに齧りつく。それでも二人の殘像は、なかなか頭の中から消えてくれなかつた。
そんなことがあつてからしばらく經つた日の朝、モノレールの驛の自動改札を出た邊りで、イチキンが僕に聲をかけてきた。
「オッス、裕太郎」
「あ、おはやうイチキン」
「最近は、校門の邊りも大分落ち着いてきたから助かるな」
「ああ、さうか。新入部員獲得合戰も一段落したみたいだ」
「にしても、やつぱり野球部はアグレッシブだつたなあ。かはいい子ばつかり集めてさ」
「なんでも四十八人、マネがゐるらしいぜ」
「なんだそれぁ、どつかのアイドルグループぢやあるまいし」
「ハハハ、それぁ言へてゐる」
「あたしは自分から、マネージャー希望したよ」
女子の聲が突然僕とイチキンの會話に混ざつてきた。振り向くと、そこに日吉さんがゐた。
日吉さんはイチキンや僕の中學の頃からのクラスメートで、この春から僕らと一緒の高校に通ふことになつた。背が小さくて、太つてゐる譯ではないけれど體全體に肉が詰まつてゐる感じ、髮が短いのを無理にポニーテールにしてゐるから、ほつぺたの邊りの丸みが強調されて、何だか妙に幼く見える。
イチキンは、おひやらかすやうに日吉さんに言つた。
「お前が何に希望したつて?」
「だから、野球部のマネージャー!」
「えー、お前がマネージャーなんかやつていいのかよ。お前がテーピングとか卷いたら、ケガの防止どころか、それで骨を折つちまひかねないぜ」
日吉さんが大きく振つた鞄がイチキンの頭にヒットした。
「痛ー!」
思はずよろけるイチキンを尻目に、日吉さんは、怒り乍ら先へ行つてしまつた。
僕はイチキンに肩を貸してあげ乍ら言つた。
「イチキン、入ればいいぢやん。野球部」
「バ、バカを言へ!あいつがマネをやつてゐる部になんか入れるもんか」
「ケガはもうすつかり治つてゐるんだらう?いつ迄も何もしないで腐つてゐるのは、イチキンらしくないよ」
イチキンは、右手の人差し指と小指を立てて、突き出してきた。つつかかつてくる時のイチキンの癖だ。
「だつたら、お前はどうなんだ?體が小さいからといふのを言ひ譯にして、何のアクションも起さないぢやないか。とにかく何かやつてみろよ、運動が苦手なら、文化部といふ手だつてあるだらう?さういへば前にお前は、美術部の貼紙、じつと見てゐたぢやないか。あれは入部するつもりたつたからぢやないのか?」
「…」
僕は黙つてしまつた。それぁ、美術部のことは氣になつてはゐて、入部しようかとも考へた。でも、僕は別に繪が得意な譯ぢやないし、あの貼紙を見てゐたのは何となくあの髮の長い先輩を思ひ出して會ひたいなと思つてゐたからで、そんな理由で入部を希望してゐるといふのでは何だか動機が不純にも感じられるし、そもそもこんなことをイチキンに言つたら笑はれてしまひさうだし…。
「どうしたんだよ、黙つちやつて」
さつき迄怒つた感じだつたイチキンが、いぶかしげに僕を見てゐる。僕はふと我に歸つた。
「あ、いや、何でもない。まあ、今すぐ何かの部に入らなくてぁいけないつていふ譯でもないんぢやないかな…」
「さうだよな。お互ひ、これからのことは追ひ追ひ考へようぜ」
僕らは校門をくぐつた。
イチキンの言葉が氣にかかつてゐた僕は、その日の放課後、美術部を探してみることにした。美術室の近くかも知れない、と思つてそちらのはうに行つてみると、扉の磨りガラスの窗に「美術部」と書かれた紙が貼られてゐる部屋があるのが見えた。
「ああ、ここか、美術部」
僕は扉の前に立つた。どうしよう、思ひ切つて開けてみようか…?さう思つて手を伸ばした時、部屋の中から聲が聞こえてきたので、僕は驚いて手を引つ込めた。
その聲の中、一人、すごく元氣のいい女子の聲がある。入學式の日、先輩が助けた子の聲も聞こえてきて、僕は何かしら安心した。もう一人、「ありがたう」とか「あれ取つて」とか「邪魔してぁ駄目よ」とか言つてゐる落ち着いた聲があるけれど、もしかしたらその聲は、あの日の晝休みに見かけた髮の長い女の人のなのだらうか。
それにしても、と、僕は思ふ。
(美術部つて、女の園なんだなあ…)
女子ばかりのところへは、何となく入りづらいや…僕はさう思つて、美術部室からそつと離れていつた。
「ただいま」
家に歸つて、玄關のドアを開け、僕は自分の部屋へ行かうとした。ところがその時、ともゑ姉ちやんの部屋のドアが開いてゐることに僕は氣づいた。
ともゑ姉ちやんは大學生だ。でも、家にゐる時間が長く、自分の部屋にこもつてゐることも多い姉ちやん、本當に學校に行つてゐるのかどうか見當もつかない。
イチキンが前に何かの用で家に來たとき、ちらつと姉ちやんを見て「美人だ!」と驚いてゐたけれど、どうなんだらう。一緒に暮らして、近くで見てゐると、態度のガサツさが目についてしまつて仕方がないんだけど。
(それでも、女は女、だよなあ…)
氣がつくと、僕はふらふらと姉ちやんの部屋に入つてゐた。部屋の中はそこそこきれいに片づいてゐるけれど、暖色系のアイテムがたくさん置かれてゐるせゐで、視線をどこに定めたらいいのか判らず、僕は戸惑つた。キョロキョロしてゐると、布のかたまりがベッドの上にあるのが見えた。
(これはもしかして…)
手にとつて展げてみると、それはブラジャーだつた。それにしても、たかが下着に、何でこんな飾りがついてゐるのだらうか。女つてのは、こんなのを着てゐて氣持惡くないのか…?
それを胸に當ててみようとしたところで、突然、襟をつかまれた。
「何してゐる、發情變態少年!」
姉ちやんが部屋に入つて來たのだつた。僕は姉ちやんに腕を捩られ、あつといふ間にお尻の下に組み敷かれてしまつた。
「さあ、あたしのブラを持つて、何してゐたんだ?きりきり白状せい!」
「やめろー!いやらしいことなんかしてゐないよ!」
「だつたら、それを釋明してみろつて言つてんの!」
僕は姉ちやんのお尻の下で、息も絶え絶えになり乍ら、これ迄のことを話した。美術部の先輩が新入生の女の子を助けるところにたまたま出くはしたこと、美術部に行つてみたら、どうも女の人だらけみたいなので氣後れしてしまつたこと、など…。
僕の話を一通り聞いた後、姉ちやんは、くすりと笑ふと、僕の頭の上から言つた。
「ゆー、あんた、それぁ戀だよ」
「え…!?」
突然飛び出した單語に僕は度膽を拔かれた。そんな、戀なんて…。
「だ、だつて、先輩は男、僕も男!」
「そんなこと關係ないぢやん。會ひたくてしやうがなくて、顏が火照つちやふなんて、絶對戀に決まつてゐる。それに、ゆー」
「何さ」
「さつきあたしのブラをいぢくつてゐたつてことは、あんたもしかして、女になりたいんぢやないの?」
「…!」
僕は反論しようとしたが言葉にならなかつた。確かに僕は、部室の前で、自分がもしも女の子なら簡單に入部できるのにと考へてゐた。姉ちやんの言葉は圖星だつた…。
「ねえ、ゆー」
「な、何だよ…」
「あたしがゆーを『女』にしてあげよつか」
「ええー!?」
僕の返事も聞かないうちから、姉ちやんは、ベルトやタオルで僕を縛り上げた。あつといふ間に僕は、身動きできない形になつて、部屋の隅に轉がされてゐた。
「な、何するんだよ…」
「メイクしてやる。だから動くんぢやない」
「でも何も、縛らなくつたつて…」
「黙れ黙れ黙れ!いいか、そのままじつとしてゐろよ…」
姉ちやんは化粧道具を出してきて、僕の顏に細工を始めた。ああしろ、かうしろの指圖を受け乍ら、十何分か經つた後、姉ちやんは滿足さうに微笑んで、手鏡を持つてきて僕の前に突きつけた。
「思つた以上の逸材だ」
鏡を見た僕も驚いた。
「こ、これが…僕?」
鏡の中にある姿は、どう見ても女の子としか思へなかつた。でも…
「顏はいいけど髮はしやうがないなあ。ウィッグとかがあればいいんだけど…」
姉ちやんはさう言つて、僕を縛つたまま、部屋を出ていつた。しばらくして姉ちやんは僕の生徒手帳を持つて戻つてきた。
「あ、姉ちやん!僕の部屋に勝手に入るなよ!」
「そんなこと言へた立場かよ、お前だつて、あたしの部屋に勝手に入つたくせに」
「むうー…」
「それに今は『あたし』つて言へよ。そんな顏してゐるんだしさー」
姉ちやんはからかふやうに言つて、生徒手帳をめくつた。
「えーと、身だしなみの規制はつと…お、やつたぢやん。髮、結構伸ばせるみたいだよ。一ヶ月ぐらゐ伸ばせばショートカットつぽくなるだらう。それ迄練習だな」
「練習つて…何の?」
「化粧のだよ。自分でやるんだよ、自分で。それに女の子らしい仕種も練習しなくてぁ」
「そ、そんな…」
「つべこべ言はないの!その先輩に氣に入られたくないの?」
「…」
「正直に言へ!」
姉ちやんがベルトを引つ張つた。正直も何も、これぢやあ脅しぢやないか。
「痛い痛い!氣に入られたい、氣に入られたいですー!」
「よーし、結構結構」
姉ちやんがやつと縛りを解きはじめた。あー、何だか、もう泣きさう…。
「はい、これ」
姉ちやんは壺のやうなものを出してきた。
「これ、何?」
「クレンジングだよ。顏洗つてきな。これを塗ると、メイクが落ちるから。殘さないやうに、しつかり落とすんだぞ」
僕は姉ちやんの手からひつたくるやうに壺を取ると、廊下をどすどすと歩いて洗面所へ向かつた。ついに、涙がこぼれ落ちてきた。頭の中がぐちやぐちやだ。
洗面所で顏を洗ひ、タオルで顏を拭つて、僕はもう一度鏡を覗き込んだ。いつもの自分がそこにゐた。しかしまばたきすると、さつきのメイクの顔がちらついて、鏡の上で二重寫しのやうになる。
壁に手をついて、深く息をし、僕は考へる。
(賭けてみるしかないのだらうか?)
僕の中で、違ふ誰かが目覺めたやうな氣がした。