どろーわーず

track01 何故かバーニング

  1.  まだ着け慣れない、硬いネクタイを少し緩めて、僕は空氣を吸ひ込んだ。講堂を出ると春の光が眩しい。退屈な入學式が終つて、これで僕は晴れて高校生になつた譯だけれども、制服が新しいものに變つた以外は、なんだかその實感が湧かないままでゐる。

     ざわめきを拔け出して、中學の頃に同級だつた穴一金太郎、通稱イチキンが、僕に聲をかけてきた。

    「おーい裕太郎、教室に行かないか」

    「あ、いや、でもその前に…」

     僕は俯き乍ら言ふ。

    「何だよ?」

    「ちよつとトイレ…」

     イチキンは少し笑つて言つた。

    「そつか、式、結構長かつたもんな。ぢや、先に行つて待つてゐるぜ」

     驅け出して行つたイチキンを見送つた後、僕はトイレを目指した。しかし、まだ勝手が全然判らない校舎のこと、なかなか見つからない。こみ上げてくる尿意を抑へ乍ら、あちらこちらをうろうろした擧句、僕はやうやく廊下の端にトイレがあるのを見つけた。

    「ふー、危なかつたー…おや?」

     用を足し乍ら、ふと氣づくと、便器の上の窗から校舎の裏手が見えてゐる。その窗を通して、女の子一人、男子數名の人のかたまりが見えた。何だか、男子のはうは獨人對數人で、言ひ爭ひをしてゐるらしい。

    (一體何事だらう…)

     僕は廊下から外へ向かひ、校舎に隱れるやうにし乍らさつきの人のかたまりのはうをうかがつてみた。片方の一群はガタイのいい男子が三名、見るからに運動部といつた感じだ。それに對抗し、背中に女の子をかばふやうな形で、長身で少し髮が長い男の人が盛んに説得の身振りをしてゐる。制服を着てゐるのだから、この學校の先輩に間違ひない。その人の言ふ聲が聞こえる。

    「だから、もう少し冷靜に話し合はうぢやないか」

    「何が冷靜だ。大體、その子は俺達野球部のマネージャーだぞ。何か文句があるのか」

    「そもそもさういふ決めつけが良くない。もつとこの子の意志といふものを尊重するべきだと思ふんだが」

    「意思?そんなこたぁどうだつていい、野球部のマネに成れるのは名譽なことに決まつてゐる」

    「それぁ、うちの野球部がかつては甲子園の常聯だつたつていふのは僕だつて認めてゐるさ。しかしだからといつて、女子の誰もがそのマネージャーになりたいん筈だつて決めつけるのは、横暴に過ぎるつてもんぢやないのか?」

    「つべこべ言ふんぢやない!大體何だお前は、いつも横からしやしやり出てきて…」

    「いつも?いや、たまたまだと思ふがなあ。ねえ、君」

     その人はくるりと向き直り、女の子に話しかけた。

    「美術部に入らないかい?」

     女の子の返事を聞くこともなく、その人は、間髮を入れず女の子の頭に手を伸ばして、女の子をこくりとうなづかせた。

    「はいこれで、この子は我が美術部の新入部員。野球部のマネには成れないから、あきらめてくれ」

    「そんな手が通用すると思ふのかよ!」

     野球部側の三人は今にも毆りかかりさうな凄みを見せたが、長身の先輩のはうは、ふざけたやうな態度でそれを受け流す。

    「おお、怖。暴力反對、暴力反對つと…おい、そこの君!」

     突然その人は、こちらを向いて、僕を指差した。あれ、ひよつとして、僕はずつと見られてゐた!?

    「あ、は、はい、僕ですか?」

    「さうだ、この子を頼む。あつちに行くとちよつとした中庭があるから、そこで待つてゐてくれ」

     その人はさう言つて、女の子の肩を輕く小突いた。女の子はつんのめるやうにして、僕の方まで走つてきた。

    「あ、あのつ」

    「なんだかよく判らないけど…あつちに行かう」

     僕は女の子を促した。まさか手を握る譯にもいかないから、僕は走り乍ら、彼女がついてきてゐるかどうか、時々振り返つて確認した。

     あの人が言つていた中庭に到着し、僕らは呼吸を整えた。よく見るとその子は、長いお下げ髮、大きな眼をしてゐて、なかなかかはいい。これぁ確かに野球部もマネージャーに欲しがる人材だらうなあ…と思ひ乍ら、僕は思ひ切つてその子に訊ねてみた。

    「君も新入生、だよね?」

    「う、うん」

    「ぢやあ、僕と同じか。あの人…髮の長い人のはうね、君の知り合ひ?」

    「いえ、校舎の中で迷つてゐたら、野球部の人達に圍まれちやつて、その時たまたま通りがかつたのがあの人で…」

    「さうなんだ…」

     そこから先、話を續けようにも、どうにも話題が見つからない。僕が困つてゐると、

    「ありがたうございましたつ」

     その子は突然さう言つて、ぴよこりとお辭儀をした。その勢ひで、お下げが跳ね上がつた。うわ、やつぱり結構長いぞ…そんなことを思つてゐるうちに、その子は走つて行つてしまつた。

     こんな時、追ひかけるべきか、どうなのか?逡巡してゐると、さつきの男の人が、ほこりで汚れた制服のあちらこちらをはたき乍らこちらへやつて來た。顏には少しアザさへ出來てゐる。しかし話し聲は、さつき聞いたのと同じやうに、冷靜かつ快活だ。

    「うーむ、須藤の奴、流石にキャッチで四番なだけあつてなかなか手強い…やあ、ありがたう。卷き込んでしまつて惡かつたね」

    「いえ…」

     僕は曖昧に答へ乍ら、その人の襟の徽章を見た。思つた通り、三年の印、僕らの先輩に當る。

    「あの…傷は大丈夫ですか?」

    「ん?ああ、こんなのはかすり傷、かすり傷。ところでさつきの子は?」

    「何だか、どこかに行つちやひました。歸つたんぢやないでせうか」

    「さうかー、今後ちやんと部に來てくれるだらうか、さうでないとまた野球部から難癖を…まあ、いいか。君も興味があつたら、美術部に來なよ。何だか變な勸誘で濟まんね。ぢや、また」

     先輩は輕く手を振つて、くるりと背を向け歩きだした。

     僕は呆氣にとられ乍ら、先輩の後ろ姿を見送つた。ほんの少し、足を引きずつてゐる感じなのが痛々しいけれど、スマートな體つき、風に吹かれるちよつと長い黒髮は、何とも言へず恰好いい…。

    「さうだ、教室に行かなくてぁ。イチキンが待つてゐる」

     先輩の姿に見とれてゐた僕は、急に思ひ出して、中庭から出發した。複雜な校舎の中を、しかし今度はサインを見乍ら愼重に歩き、僕はやつと三階にある僕らの教室を見つけた。廊下のガラス窗から、何人かの生徒が教室の中にゐるのが見えた。まだ入學初日といふこともあつて、互いに遠慮がちな距離をとり乍ら、少人數のグループがいくつか出來てゐる。イチキンは獨人で、机の上に退屈さうに座つて、足をぶらぶらさせてゐた。僕は扉を開けて、イチキンに聲をかけた。

    「待たせてごめん!」

    「遲かつたぢやないかよ」

    「いや、トイレに行つたところで、こんなことがあつてさ…」

     僕は手近な椅子に腰かけ、さつきの部員勸誘事件について、かいつまんでイチキンに話した。

    「ふーん、そんなことがあつたのか。や、この學校では野球部の『マネ狩り』があるつて聞いてゐたけど、あれ、ただの噂ぢやなかつたんだな。で、その子はどうした?」

    「その子つて?」

    「美術部の先輩に助けられた子だよ」

    「あ、いや…その後走つてどつかに行つちやつたんだ…」

    「ボンヤリだなお前も。運命の出會ひだつたのかも知れないぢやん」

    「茶化すなよ。大體、運命の出會ひと言ふならむしろ…」

     言ひかけて、僕は、口淀んだ。突然頭の中に、先輩の笑顏が、何重にもフラッシュバックした。喉が締め付けられ、頬が熱い。な、何なんだ、この感覺…?

    「ま、いいか。そろそろ歸らうぜ」

     イチキンの一言で僕は我に歸つたけれども、頬のほてりはなかなか收まりさうにない。何だか初日からドタバタだ…荷物を擔いで、廊下を行くイチキンを追ひ乍ら、この頬のほてりを春の暖かさのせゐにしてどこ迄ごまかしきれるだらうかと、僕はそんな風に考へてゐた。