短歌☆週一

氣に入つた短歌、氣になる短歌を、週に一首のペースで紹介していく(つもりの)ページです。

※引用する短歌の表記は原則的に原文に從ひます。

七週目 かすかに、色即是空の聲が…

だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし
宇都宮敦

今囘の宇都宮敦さんの歌は、枡野浩一さんの小説「ショートソング」から引いてきました。この小説には澤山の短歌がちりばめられてゐます。物語はフィクションですが、引用されてゐる短歌はみな實在の歌人の作品なのださうでして、短歌の本當の作者は卷末の一覽で知ることが出來ます。

さて、ぱつと見にはなんといふこともない科白もしくはつぶやきのやうなこの歌が、何故面白いのか、僕なりに考へてみました。

まづ、この歌は、作りがとても素直です。五七五七七にぴつたり收まり、言葉の切れと句の切れも一致してゐます。また三句・四句・結句が「し」で終り、所謂脚韻を踏む形にもなつてゐる。これらの結果、この歌は、一讀して覺えやすいものになつてゐます。短歌がうたはれるものである以上、覺えやすく、口にのぼせやすいことは、秀歌の條件のひとつでもあります。

またこの歌は、「急ぐ旅ではないのだし」とまづ否定を出したあとさらに、「急いでないし」「旅でもないし」と、その否定も否定し盡くしてしまひます。結果として殘るのは「だいじょうぶ」といふ主張だけで、それはそれで心強いものではありますが、「うーむ大丈夫とはいふものの、一體何が大丈夫なのだらう?」と考へ込んでしまひます。

いきなりものすごい我田引水になりますが、この短歌は「般若心經」に似てゐると、僕は思ふ。般若心經は、否定、否定をくり返して、空に行きつく譯ですが、空はまた妙有(めうう)とも呼ばれ、ただ何もない、といふ譯でもありません。空位を得てもゐない僕には、妙有を的確に解説することなど及びもつきませんが、初句の「大丈夫」はこの際、妙有のシンボル、希望のシンボルになつてゐると、僕は思ひます。

以下は少しネタばらしになるので、まだ「ショートソング」を讀んでゐない方には讀みとばしていただきたいのですが。

この歌は、物語の最後、二人の男の二つの歌が對比されて見開きに載せられてゐるうちの片方です。これから何かを得るだらう男と、全てを失つてしまつた男。この歌は、その二人のうちの、全てを失つてしまつた男のはうが詠んだものと、物語の上ではされてゐます。何もかもをなくしたあとでも、いや大丈夫だと、少しく手のこんだやり方で自分に言ひ聞かせて、男は進んでいかなければならない。うまいところに、うまい歌が嵌つたものです。「ショートソング」といふ短歌小説は、この最後の二首の歌へと行き着く、壯大な序詞だつたんぢやないだらうか―小説を讀み終へたあとの僕は、そんな感想を持ちました。

(2007年11月11日)

出典 ショートソング 枡野浩一 集英社文庫


六週目 短歌だつて、文章だ!

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
釋迢空

ブログ(F.S.D.)にも書きましたとほり、先日枡野浩一さんの「一人で始める短歌入門」(ちくま文庫)を讀みました。實は、枡野さんの本は、これ一册しか讀んでゐません。たつた一册しか讀んでゐないのですかと、枡野さんに靜かに激しく叱られてしまひさうです。しかし、この本を讀み乍ら、枡野さんは、言葉は傳はるものだし、また言葉を使ふ以上は傳へられるやうに努力しなければならない、と嚴しく考へてゐる方なのだといふ印象を持ちました。そこで僕は何故か、今囘の釋迢空さんの短歌を思ひ出した譯です。

釋迢空こと折口信夫(1887―1953)は、「マレビト」の思想で有名な民俗學者であり、また歌人でした。例のアンチョコ本「現代の短歌 一〇〇人の名歌集」(篠弘編著、三省堂)でその歌を拜見すると、國を愛した民俗學者が、戰爭前後の國土の荒廢を嘆いてゐるといつた體の歌が多く見受けられます。文語短歌ですが、難解ではありません。

その短歌作品の表記は、句讀點やダーシ(棒記號)、一字あけなどが多用された、一種獨特のものです。一見するとこれには何か前衞的な意圖があるやうに感じられますが、枡野さんの主張を思ひ出し乍ら再讀してみると、この手法はむしろ、短歌作品を日本語の文章として判りやすくしようとして使はれたもののやうな氣がしてきました。

三十一音と限られた短歌では、つい言葉を略したり、文法的に無理な言ひ方をしたりしてしまひがちです。また耳目を集めようとして、奇を衒つた表現をしてしまふこともよくあることです。しかし、それらが成功することがまれにはあるとはいへ、本當はそれではいけないのではないか。例へば僕の勤務先の社長と僕とは、雙方ともしやべるのが得意なはうではないので、仕事の電話でしよつちゆう「今のはどういふことですか?」と言ひあつてゐます。文法から外れた物言ひ―といふ言ひ方が堅苦しいなら、普通ではないしやべり方、と碎けてもよいのですが―は、自分で思つてゐる以上に傳はりません。短歌が自分の心情を吐露する文藝であらうとも、その心情を傳へる爲には、いろいろな點に注意する必要があります。

もつとも、釋迢空さんの表記方法を取り入れることは、實作においては難しく、また單に眞似をしても「釋迢空風の猿眞似」に終つてしまふでせう。しかし例へば現在、枡野さんが、歌の作りによつては一字あけを勸めるといつたやうなことは、釋迢空さんの考へ方と手法に、深いところでつながつてゐるやうな氣がします。

(參考)折口信夫 - Wikipedia

お詫び:「葛」の正字が出せませんでした。ご勘辨ください。

(2007年10月13日)

出典 今日からはじめる短歌の作り方 田島邦彦 成美堂出版


五週目 世界最短の落語。

うっかりと妻の料理にケチをつけあれから三日缶詰ばかり
春風亭柳昇

今囘もまた孫引きです。田島邦彦さんの「今日からはじめる短歌の作り方」より。版元が成美堂出版といへば、ピンとくる方もいらつしやるかも知れませんが、この本は所謂實用書といふもので、買つたときには少し恥づかしい氣もしました。しかし、作例滿載、萬葉から現代迄の短歌の大雜把な流れも知ることが出來ますし、Q&Aやテーマ別作品例も作歌の參考になります。今となつたら正字正かなの取り上げ方に多少不滿があるくらゐで、これは隱れた勞作だと思ひます。

さて今囘は、その本から、故春風亭柳昇師匠の作を引いてみました。落語家・五代目春風亭柳昇師匠(1920―2003)は、「わたくしは、春風亭柳昇と申しまして、大きな事を言ふやうですが、今や春風亭柳昇と言へば、我が國では…」といふつかみで有名な、主に新作落語を高座にかけて人氣のあつた方です。

俵万智さんに刺激されて、これなら自分も作れるといつて作つたと同書にはありますが、古典落語には「千早振る」(ちはやぶる神世もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは 在原業平)、「崇徳院」(瀬をはやみ岩にせかるる瀧川のわれても末にあはんとぞ思ふ 崇徳院)といつた小倉百人一首の短歌を取り上げた演題があり、柳昇師匠が新作落語を主に高座にかけてゐたにしても、これらのネタを通して短歌にはある程度の知識があつたのだらうと思はれます(もつともこれらのネタは、ご隱居さんの珍解釋ぶりを笑つて樂しむものではあるのですが)。

さて、柳昇師匠の短歌を見てみると、落語の「つかみ」や「くすぐり」が短歌の形にストンと落ちた、といふやうな印象を受けます。また、結句が「オチ」になつてゐる譯で、これはまるで非常に小さな落語のやうです。

ストンと落として、ニヤッと笑はせてくれる柳昇師匠の短歌は、狂歌の系譜とどこかでつながつてゐるやうな氣もします。僕はまだまだ短歌勉強中の身、狂歌についても全く不案内です。短歌探しは、遠い道として、まだまだ續いていきます。

(2007年10月2日)

出典 今日からはじめる短歌の作り方 田島邦彦 成美堂出版


四週目 一氣に大袈裟な境地へ。

好きなものイチゴ珈琲花美人懐手して宇宙見物
寺田寅彦

寺田寅彦さん(1878―1935)は、物理學者でしたが、一方夏目漱石門下で俳句も學んでをり、所謂理系と文系を融合させた人物として最近再評價されてゐるやうです。

ただし、僕は寺田さんの文をまとめて讀んだことはありません。讀んだのは、岩波文庫から出てゐる隨筆集「柿の種」だけです。今囘ご紹介する歌は、松岡正剛さんの「自然学曼陀羅」から引いてきたもので、孫引きになります。

さてこの歌の魅力は、小さなものから大きなものへと、スケールが擴大してゐるところにあります。考へてみれば、誰であつても「好きなもの、なんとかかんとか」と竝べれば、この手の歌は作れてしまひます。しかし寺田さんの上手いところは、「イチゴ珈琲花美人、懷手して」迄地上的なものを竝べた上で、結句に「宇宙見物」といふ壯大なイメージをぶつけてきたところです。

この歌と關係があるのかどうか判りませんが、物理學者・寺田寅彦が、微視と巨視をまたがる視野を持つてゐたことの證左として、少し長くなりますが「柿の種」から一文を引用してみませう。先にも書いたとほり「柿の種」は岩波文庫に收録されてゐますが、ここでは僕が古本屋さんでたまたま手に入れた昭和八年發行の小山書店版(蛇足ですが、水濡れがひどいので、安く買へたものです)から引きます。こちらは、當り前乍ら、もとから正字正かなになつてをりますので。

僕は此頃、硝子板を、鋼鐵の球で衝撃して、割れ目をこしらへて、其の割れ方を調べて居る。

甚だ馬鹿氣たことのやうであるが、やつてみると中々面白いものである。

極輕くたゝいて、肉眼でやつと見える位の疵をつけて、其れを顯微鏡で覗いて見ると、球の當つた點のまはりに、圓形の割目が、硝子の表面に出來て、其處から内部へ末廣がりに、圓錐形のひゞが入つて居るが、其のひゞ破れに、無數の線條が現はれ、實に奇麗なものである。

面白いことには、その圓錐形のひゞわれを、毎日のやうに顯微鏡で覗いて見てゐると、それが段々に大きなものに思はれて來て、今では、一寸した小山のやうな感じがする。

さうして其山の高さを測つたり、斜面の尾根や谿谷を數へたりして居ると、それが益々大きなものに見えて來るのである。

實際の此の山の高さは一分の三十分の一よりも小さなものに過ぎない。

此の調べが進めば、僕は、ひゞを見たゞけで、直徑幾ミリの球が、いくらの速度で衝突したかを云ひあてることが出來るであらうと思ふ。

それを當てたら何の役に立つかと聞かれると少し困るが、併し、此話が、何か君の俳諧哲學の參考にならば幸である。

今まで、まだやつと二三百枚の硝子板しか毀して居ないが、少くも二三千枚位は毀して見なければなるまいと思つてゐる。

粟一粒秋三界を藏しけり

(參考)寺田寅彦 - Wikipedia

(2007年9月23日)

出典 自然学曼陀羅 松岡正剛 工作舎


三週目 キャラクターを思ひ起こさせる歌。

傷口に塩をぬるよなワタクシの唄を聞いてよじっくり聞いてよ
高橋幸宏

これは、「短歌はじめました。百万人の短歌入門」(角川文庫)から拔いてきた歌です。いきなり惡口からはじめますが、この本の「はじめに」は、面白くしようと思つた結果なんだか嫌味な感じになつてしまつてゐるといふ、典型的な惡文です。しかし逆に言ふとこの本の中で嫌なのはそこだけなので、「はじめに」を書かれた沢田康彦さんは、本編においては穂村弘さん・東直子さんの二人のプロ歌人を向かうに囘して見事な司會ぶりを見せてゐます。沢田さんの主宰するファックス短歌同人誌「猫又」に寄せられた短歌を、プロの視點で評價してもらはうといふ趣向のこの本は、實際この一册で十分短歌がはじめられるおすすめの良書なのですが、それだけにこの「はじめに」の存在が殘念でなりません。

さて、高橋幸宏さん(念の爲書いておくと、高橋幸宏さんはミュージシャンであり、イエロー・マジック・オーケストラのドラムス・ボーカルでした)の短歌。自分の作つた音樂を聽いてみて欲しいといふ思ひが、簡潔かつストレートに歌はれてゐます。YMOはともかくとして、僕は高橋さんのソロの音源は友達から借りた「A NIGHT IN NEXT LIFE」(ライブ盤)しか持つてゐません。しかし、その收録曲を思ひ出してみると、確かに高橋さんの音樂といふのは「傷口に鹽をぬるやうな」ものであるなあ、といふことが實感されます。

高橋さんは有名なミュージシャンであり、その樂曲も廣く知られてゐるのですから、そのキャラクターと合はせて鑑賞すると深く納得させられる歌だといへませう。ではちつとも有名ではない僕たちがこの歌から學ぶことがないかといふとさういふ譯でもなく、ここで重要なのは「キャラ設定」といふことだと思ひます。一首の短歌の背後には、必ずそれを詠んだ人がゐます。ではその作者は一體どんな人なのか。それを想像しないではゐられないやうな氣持ちにさせるといふのも、いい歌の條件のひとつです。單なる敍景歌、寫實の歌であつても、その景色を見てゐる「人」がゐる、その人に思ひを馳せさせるやうな歌が、屹度いい歌なのでせう。

結局のところ、作歌するにも演技力が必要である、ナチュラルに歌ふ場合であつても、徹底的にナチュラルに見せるやうな演技が必要だ―と考へるのは、うがち過ぎでせうか。

(2007年9月13日)

※2007年10月2日 文字修正

出典 短歌はじめました。百万人の短歌入門 穂村弘・東直子・沢田康彦著 角川書店


二週目 ぬけぬけと歌ひきること。

机の上に風呂敷包みが置いてある 風呂敷包みに過ぎなかったよ
山崎方代

「現代の短歌 一〇〇人の名歌集」(篠弘編著、三省堂)は僕のアンチョコで、書名が示すとほり、現代歌人百人の作品が收められたアンソロジーです。今後もこの本は參照していくことになるでせう。

さて、山崎方代さん(1914―1985)。口語的な歌ひぶりで知られ、またその漂泊の人生から「短歌界の山頭火」とも言はれてゐるさうです。短歌にざつと目を通して、驚かされるのは、觀察眼が確かなこと(戰鬪による視覺障碍者なのださうですが)。しかも方代先生、同じ觀察するにしても實に奇妙なものばかり觀察してゐる。

この歌も、觀察が徹底しすぎてゐて、一讀してのちナアンダ、といふ白けた氣分に陷ります。しかしちよつと待て。風呂敷包みといふものは、風呂敷で何かを包んであるからこそ風呂敷包みとして成立するものであり、その何かについて言及しない限り「風呂敷包みに過ぎなかつたよ」とは言ひ切れない筈だ。しかし方代先生はそんなことにはおかまひなしに、この言ひ切りで歌を成立させてしまひます。

讀んでゐるこちらとしては、謎解きがされたやうなされてゐないやうな、宙ぶらりんな氣分になつてしまひます。そして、その風呂敷包みに包まれてゐたものは何か、それも氣になる。讀者は歌の前で考へ込み、方代先生はいつの間にか、またどこかへ…。

落ちがばつちり決まつてゐて、「なるほど!」と膝を打つやうな短歌もいいもの。しかし、この歌のやうな餘韻の殘し方も、參考になります。ただしそれにはやはりぬけぬけと歌ひきる覺悟が必要で、それはなかなか出來るものではない、とは思ひますが。

(2007年9月9日)

出典 現代の短歌 一〇〇人の名歌集 篠弘編著 三省堂


一週目 短歌リスタートのきつかけは、ラジオと面白歌人。

電話帳ちぎるレスラー思いつつおまえの手紙を破っているぞ
笹 公人

實は僕は、人に勸められて短歌をはじめたあと、一年ぐらゐやつて一旦やめてゐました。どうも、同じやうな歌しか詠めてゐないやうな氣がして。ですから、在京FM局のお晝の番組「MUSIC PLUS」に短歌のコーナーが出來る、と聞いても、今更なあ、といふ氣がしてゐました。

ところが、このコーナーに現れた笹公人師範は、僕がぼんやりと描いてゐた歌人に對するイメージとはかなり異なつたキャラクターの方でした。とにかくトークが面白い。番組進行役のDJ TAROさんとのぼけつつこみ(笹師範が大體「ぼけ」)がばつちり成立してをり、かういふ方になら短歌を見ていただいてもいいかも、と思つて、僕はラジオ局のブログへの投歌をはじめました。つまり、キャラクターに引つ張られて、短歌を再始動させたのです。

引用させていただいた歌で、例へば「レスラー」などといふ言葉は、歌語にはなり得ないものと僕は思つてゐました。ある意味、難しいことを五・七・五・七・七に收めればいいんだ、みたいに考へてゐた節がありますから、著しく世間知らずだつた譯です。短歌だつて詩なのですから、讀む方に傳はるものがなければいけません。その一方で、謎めいたところもあつていい。初句から三句迄で述べられてゐる、力のこもつた感じで破られてゐる「おまへの手紙」。どんな手紙なのでせう。失戀の歌のやうにも思へますが、何だか陰謀に關はるもののやうな氣もします。

三十一音といふ短い詩形の中で、共感と謎とをどうやつたら同時に提出出來るか?この難しい課題に挑むためには、自分に語彙が少ないことを嘆くのではなく、自らの語彙を増やしていく努力の方が必要でせう。同じやうな歌しか詠めてゐない、なんて言つてゐないで、もつといろいろ探してみたらどうなんだ。恥づかし乍ら、ラジオに笹師範が登場する迄、僕はそのことに氣づけずにゐました。

(2007年9月3日)

出典 念力図鑑 笹公人著 幻冬舎