プレッツェル

 小麥の不作は村はずれの教會にも影響を與へてゐた。この教會では、お祈りを捧げに來たご褒美として、小麥粉で作つたお菓子を子供たちに配ることにしてゐたからだ。教會の院長を務めるお坊樣が、修行僧たちを集めて言つた。

「諸君、我々はこれからどうするべきか? 意見を聞かせてくれたまへ」

「……院長樣はどうお考へですか?」

「かうなつたら私たちの食べる分を減らしてでも、お菓子に充てなければならないと思ふ。勿論、諸君が贊成してくれればのことだが……」

 院長の言葉に應へてお坊樣たちが叫んだ。

「私は小麥を供出します」「私も自分の食べる分を減らします」「私も」「私も」

「それぢや、あつしも一口」

 突然下卑た聲が響いてきたので、一同驚いて振り向いた。そこにゐたのは、皺の寄つた黒い肌、炎のやうに輝く眼、鼻が異常に高く、口元に犬齒が牙のやうに突き出してゐる不氣味な人物。さう、その姿はまさしく――

「君は惡魔か!?」「おつしやる通り」

「しかし何故惡魔が教會にゐるのだ?」

「あつしぁここの先々代の院長さんの法力で、この教會の土臺に封じられてゐたんで。ところが昨日、ふと氣がつくと、あつしを封じ込めてゐた岩がいつの間にか割れてゐるぢやありませんか。あつしぁ大喜びで土臺から拔け出し、魔王樣のところに久しぶりにご機嫌うかがひに行つたのでさぁ。ところが魔王樣のいふことにぁ、『お前のやうなたわけ者の顏など見たくない。罰としてしばらく善行でもしてゐろ』と、かうでやすよ。お坊樣方にはお判りでせう、善いことをするなんて、惡魔にとつちやどんなにか辛いことか」

 さう言ひ乍らしかし、頬迄裂けた大きな口で、惡魔はどことなく面白さうに微笑むのだつた。

「君の申し出は有難い。しかし確認するが、君の用意する小麥粉は盗品ではあるまいな?」

「神に誓つて――おつと、これぁ惡魔の名が泣きまさぁね。魔王樣に誓つて、盗んだ品ではござんせん」

「口にすると惡への誘惑に驅られるといつたやうなことは?」

 惡魔は心持ち顏をしかめて、「院長樣、あんたあんまり惡魔を見くびりぁしませんかね」

 院長の方は少しうろたへた體で、「判つた、君を信じよう。是非私たちに君の小麥を分けてくれたまへ」

「ところが、實はここにはないんで。祕密の倉に取りに行くのに三日程かかるんでやすが――」

「となると、金曜日だな。よからう。よろしく頼むぞ」

「判りやした。かつきり三日後、金曜日にお持ちしやす。それぢや」さう言つて惡魔は部屋を出ていつた。

「院長樣、よいのですか? 相手は惡魔ですよ? 何かたくらみがあるのかも――」

「さうかも知れん。しかし、子供たちのことを考へてみたまへ。皆お菓子を樂しみにしてゐるのだらう? ましてやこの凶作だ。空腹を少しでも癒してあげられるなら、惡魔の小麥粉でもかまはないではないか。我々で出來る限りの清めのお祈りをしよう」

 約束の金曜日。僧たちは調理室に集まり、窯を暖め、お菓子を燒く準備を整へた。しかし、惡魔はいつかうに現はれなかつた。

「惡魔の言ふことなどあてに出來ない!」

 日付も變はらうかといふ頃、若い坊様が業を煮やして叫んだそのとき、扉の外で、ドサリ、と音がした。驚いた僧たちが急いで扉を開けてみると、そこには大きな櫃が置いてあつた。櫃の蓋を開けてみると、その中には、村中の子供たち、いや大人にもお菓子を分けて充分餘る程の小麥粉が入つてゐた。

「これはありがたい!」

 お坊樣たちはお祈りをし、櫃の中から必要な分だけを取り出して、お菓子を作つた。しかし彼らはこの粉を口にすることはなかつた。嫌つたのではない。「この小麥粉は、子供たちにお菓子を配るために惡魔がくれたものだ。これで私たちが飢ゑを滿たす譯にはいかない」と思つたからだつた。

 この小さな教會に、本山の偉い僧侶が巡視に來た。ところがこの人、非常な大食ひときてゐる。食事時、教會の坊樣たちは、よく育つたキャベツ程の大きさのパンをこさへて偉い僧侶に出したといふのに、彼はそれでも滿足しないらしい。さつさとパンを平らげた本山の僧侶は、食卓を眺め囘して言つた。

「もつとパンはないのか?」

 教會の院長は、自分の皿に載つてゐる赤ん坊の拳程の小さなパンを指し示し乍ら、偉い僧侶に言つた。

「申し譯ありません、今年は不作でして。私たちも、こんな小さなパンでしのいでゐるといふ次第です。どうぞご勘辨の程を――」

 院長の言葉が終はらないうちに、偉いお坊樣は席を離れて、惡魔からの小麥粉が入つてゐる櫃の蓋を開けて、言つた。

「ならば、ここにある小麥粉は何かね?」

「それはお祈りのご褒美のお菓子を作るための材料でして――」

「馬鹿な! 神を信じる者ならば、祈るのは至極當然のことであらう! ご褒美で釣るなどといふのはもつてのほかだ。いつそ、この小麥粉で、私のパンを燒きたまへ」

 その言葉を聞いて、今度は院長が立ち、櫃の前に行つた。院長は櫃の蓋を閉め、丁寧に、しかし毅然と、言ひ放つたものである。

「これは言はば、預かりものです。あなたも、私たちも、一切口にすることは出來ません」

 巡視のあとしばらくして、小さな教會に本山から書状が屆いた。それは院長に山奧の村の教會への異動を命令するものだつた。

「何といふ幸運! 神の威光があの地方にはまだ充分に屆いてゐないといふ。神はそんな場所にこの私をお遣はしになるのだ! 私に新たなる試練を授けてくださつたのだ!」

 院長はさう言つて喜んだが、他のお坊樣たちは疑つた。あの地方は山が嶮しく、人もそれほど住んでゐないといふ。もしやこれは、巡視の偉い僧侶の陰謀なのではないか……? 皆のそんな心配をよそに、院長は旅支度を調え、坊樣たちに別れの挨拶を告げた。

「各々修行に勤めること、そして村の人々に神の恩惠を傳へること。これからも、ご褒美のお菓子を燒いて、子供たちに配ること。さう、あの惡魔にあれ以來會つてゐないが、もし彼が現はれたら、感謝してゐる旨、傳へておいてくれたまへ。それでは、皆、さらばだ!」

 院長は供もなく、勤め慣れた教會をあとにした。もうかなりの老齡、しかも不作の影響で體力も弱つてゐる筈だ。本當に大丈夫だらうか……教會の僧侶たちは、院長の後ろ姿を、心配し乍ら見送った。

 その後しばらくたつて、所用のために村に出かけてゐた若い坊様が、泣き乍ら教會に戻つてきた。

「おい、どうしたのだ?」

「院長樣が……お亡くなりになりました!」

「何だつて!」

「やはり無理だつたのです。山の麓迄辿り着いたところで、院長樣は胸を傷め、地元の農家で逝つてしまはれました」

「院長樣は、何か言ひ遺されたかね?」

「神の名前を呼び乍らの、神を信じる者として恥づかしくない最期だつたと傳へ聞きました。しかし……しかし……」

 若い坊樣は言葉を詰まらせた。他の僧侶たちも皆うなだれた……そのとき、おもてで途轍もない音がした。

 ドカン! バキバキバキ! ガラガラガラガラガラガガガガガギギギギギギギ……

 坊樣たちは驚いて外に出た。見よ、街に向かつて伸びる街道を、赤黒い色をした火の玉がものすごい勢ひですつ飛んでいくではないか! 僧侶たちは、その恐ろしい光景を呆然と見送り續けてゐた。

 本山の偉い僧侶が寢室に入ると、そこに角を生やした不氣味な人物がゐた。眞つ赤な眼を怒らせて、それは言つた。

「待つてたぜ」

「お前は何者だ?」

「見て判らねえのか? 惡魔だ!」

 偉い僧侶は寶石で飾られた十字架を咄嗟にふりかざした。しかし、惡魔はひるまなかつた。

「べらばうめ、そんなものが怖くつて惡魔がやつてられるかつてんだよ! あんなに偉い院長樣をみすみす見殺しにしやがつて。そんなに腹がへつてんなら、これでも食らへ!」

 惡魔は毛だらけの腕を突き出し、握つてゐた拳を開いた。その掌の上に現はれたのは、粘液にまみれた眞つ黒なひき蛙。それは一聲ゲロリと鳴くと跳ね上がり、僧侶の口に飛び込んだ。彼はたまらずそれを飮み込んでしまつた。突然、僧侶の體が縮みだし、やがて子供の姿になつた。

「さあ、これでお前は八歳だ。お前はこれから毎日お祈りしろ。五年間、一日も休まなかつたら、お前を元に戻してやる。一日も休まずだぞ! 雨の日も、風の日も、たとへ吹雪が荒れ狂はうともお前はお祈りをするんだ!」

 惡魔はさう言ふと、子供をひつかかへ、そのまま窗を割つて飛び出した。蝙蝠のやうな羽根をひろげ、ものすごい勢ひで空を飛んでいく。目指すは、徳の高い修行僧がそろつてゐる、あの小さな教會――。

 その教會に、毎日お祈りを捧げに來る少年の姿があつた。雨の日も風の日もやつてくる少年について、坊樣たちはかう噂しあつた。

「あの少年、また來てゐるね」

「彼は言葉が話せないんですよ」

「さうなのか? だから毎日お祈りに來てゐるのかな、聲が出るやうに願つて」

「なんとか彼を元氣づけてあげたいですね」

「……さうだ! ちよつと思ひついたことがあるんだが……」

 次の日、一人で祈つてゐる少年に坊樣たちは近づき、聲をかけた。

「君は本當に感心だね。君の姿をかたどつて、こんなお菓子を作つてみたよ。早く聲が治るといいね」

 坊樣はさう言つて、お菓子をひとつ、少年に手渡した。その全體の形はアルファベットのBに似てをり、「胸の前で合はせた手」つまり祈りの姿をかたどつたものだつた。

 少年は涙を流した。やがて、教會のお坊樣全員による祈りの聲が、禮拜堂に靜かに響きはじめた。

 ――と、これは、ドイツ菓子「プレッツェル」の由來話に、僕が勝手な想像を付け加へたものであります。


※傳説の小册子「しえすた」(2001年)に書いた作品です。表記を正字正かなにあらためた上、いろいろと修正・加筆をほどこしました。