大ファール

 三月、窗から差す光はやうやく暖かみを増して、空氣の中に漂ふほこりをきらきらと浮かび上がらせてゐた。ここは學校の圖書室に隣接してゐる、書庫を兼ねた小さな部屋で、圖書準備室と皆に呼ばれてゐる。亂雜に積み重ねられた本のいちばん上の表紙を見て、僕は首をかしげた。

「記蟲昆・ルブーァフ……?」

「ファーブル・昆蟲記、だろ。昔の本だから、題名が右から左へ書いてあるのさ」

 覆ひかぶさつてきた聲に驚いてふりむいてみると……

「齋藤先生!」

「お前、卒業迄にここの圖書準備室を片付けるんだつてな。ご苦勞なことだ」

 齋藤先生はさう言ふなり、近くの椅子に腰をおろした。先生は、筋骨逞しい上にくるくるの丸刈り頭。どことなく、「坊ちやん」の山嵐先生を彷彿とさせる。

 先生の言ふとほり、圖書室の隣にあるこの準備室を僕は卒業迄に整理しようとしてゐた。文藝部の部活動でよく利用させてもらつた圖書室の控への部屋が手の付けられない慘状を呈してゐるといふことを僕が知つたのは、二學期も終はりに近づいた頃のことだ。受驗に早めに目鼻がついてゐた僕は、圖書室への恩返しの意味をこめてこの部屋を片付けることにした。床を掃き、本のほこりをはたき、机の上や床などにばらまかれた本を本棚の所定の位置へ戻していく――どういふ理由かは知らないが、何年も放つておかれた部屋のこと、そのくりかへしは決して樂ではなかつた。冬休みに入る直前、十二月のまだ寒い頃からはじめて、この三月に入つてやつと先が見えてきた程なのだから。

 齋藤先生は、手近にあつた「春秋」の頁を弄び乍ら、僕に言つた。

「お前、何で文化祭で舞臺に上がらなかつたんだ?」

「へつ? 舞臺も何も、僕はただの大道具のはしくれでしたよ……」

「でもなあ、工藤も加瀬も、宮越よりいい芝居してたつて言つてたぞ。文科系のわりには、シャープなバットの振りだつたつて……」

 僕らは、秋の文化祭で、一度引退してからカムバックしてきた野球選手の芝居を上演した。主役の野球選手役には、實際野球部で活躍してゐる名ショートの宮越があたつた。ところが、彼は野球部と演劇の練習がかけもちなので、彼が芝居の方に來られないときには僕が代役を務めてゐたのだ。

「あれだけ仕上がつてゐたんだから、お前が主役でもよかつたんだ。大體、宮越なんてろくに練習に來てなかつたんだろ?」

「でも先生、あのとほり舞臺は大成功でしたよ。宮越君は、マスクも整つてゐるし、演技のセンスもあるんでせう。僕と彼とぢや、持つて生まれた才能が違ふんですよ」

「やれやれ、その調子で今度はこんな薄汚い部屋をたつた獨人で掃除か? たまにはお前も、光のあたる大舞臺に立つてみたらどうなんだ?」

 その言葉にちよつとむつとした僕は、先生に言ひ返した。

「だつたら先生は、さういふ大舞臺に立つたことがあるんですか?」

「ああ、あるさ。今だって毎日――」

「毎日ですつて?」

 先生は僕の問には答へず、ポケットからハイライトを取り出して――

「なあお前、ライター持つてるか?」

「先生!」

「冗談だよ、冗談」

 莨を振り乍ら、先生は部屋を出ていつた。僕は溜息をついて、すすけた手で本を竝べはじめた。

 さて、そんな齋藤先生だが、これがまた妙な人物だつた。級友たちにきいてみても――

「齋藤? そんな先生知らないなあ」

「二年のどつかの組の擔任ぢやねえの?」

「非常勤かもね……少なくとも、僕は知らないなあ」

 さう、齋藤先生のことをはつきりと知る者は誰もゐなかつた。思へば朝禮でも僕らが齋藤先生を見かけたことは一度もなかつたし、彼がどの科目を教へてゐるかすらも誰も知らないのだ。齋藤先生といふ人物は本當に實在してゐるのだらうか? 僕は心もとない氣持になつてゐた。

 齋藤先生と言ひ爭つてからしばらくたつた日、僕はまた圖書準備室にゐた。例のファーブルの昆蟲記を本棚にをさめて――

「やつた、終はつた!」

 さう、準備室の片付けがこれでたうとう終はつたのだつた。整理の出來た本棚をしみじみ眺めてゐると、突然扉がガラッと開き、元氣のいい聲がとびこんできた。

「あー、こんなところにゐたんだ!」

 加瀬さんだ。文化祭の芝居でいちばんがんばつてゐたヒロインだ。

「早く屋上に來て!」

 さう言ふと、加瀬さんは、もう走り出してゐた。何事だらう? 僕は加瀬さんを追ひ、階段を上り乍ら彼女に經緯を訊ねた。彼女の答へはかうだつた。

「齋藤先生が『お前らの芝居をもう一度屋上で觀たい』つて言つてるの。今頃みんな集まつてゐる筈よ」

 彼女の言葉は本當だつた。校舎の屋上に出ると、工藤、寺島、音響の長宗我部、演出の唐澤、等々……宮越を除いた全員が屋上にすでに集合してゐた。唐澤が僕の方に進んできて言つた。

「おせーんだよ、矢野。はじめるぞ」

「あれ、だつて齋藤先生がゐないよ?」

「何だか知らないけど『俺がゐなくてもはじめてろ』つてさ。いいぢやん、一囘リハーサルだと思つてやれば。でもな、たとへリハーサルでも、トチつたら許さないからな」

「キツさは相變はらずだな、監督」

「言つてろ。ぢや、長宗我部、頼む」

 黒縁眼鏡をかけた長宗我部は輕くうなづいてラジカセのスイッチを入れた。音樂の鳴りはじめる中、工藤、寺島、加瀬さんを中心とした皆は、屋上の一部分が一段高くなつて舞臺のやうになつてゐるところに上つて、すつかり「役者の顏」になつてゐる。いけないいけない、宮越が來てゐない以上、僕が彼の代役をやらなくちや……僕はあわててその簡素な舞臺に上つた。

 それにしても、文化祭からもう半年近くも經つてゐるといふのに、臺詞がみんなにほぼ完璧に入つてゐることには驚いた。さういへば、あの頃はみんな一所懸命だつたつけ。臺本の直しが擔當の早野は唐澤と意見が合はなくて衝突ばかりしてゐたし、主人公の敵役の寺島は臺詞がなかなか覺えられなくて苦勞してゐた。いつも明るく場を盛り上げてゐた加瀬さんも、演技が上手くいかなくてこつそり泣いてゐた日があつたことを僕は知つてゐる。役者だけぢやない、裏方だつてさうだつた。工作は好きだから全然苦ぢやない、と笑ひ乍ら遲く迄ナグリ(金槌)を振るつてゐた松澤や、たつたひとつの打球音を作るためだけに放送室にこもりきりだつた長宗我部や――。

 そしていよいよ芝居の山場、カムバックした主人公がピンチヒッターで打席に入るシーンだ。ピッチャー役の寺島の投球で早々とツーストライクを取られた僕は、意を決してバッターボックスに入り直す。寺島から見えない三球目が投じられ、僕はその球を見えないバットで打ち返す! 見えない打球は一壘線へ伸びていく、その打球を目で追ふ先、眼下の校庭のはるか彼方に、たつた今昇りだした、眞つ赤な月が見えた。さう、その姿こそは――

「齋藤先生!」

「矢野、バカ! ボケつとすんぢやない!」

 唐澤の聲が聞こえた。僕はあわてて、芝居に戻つた。


※だいぶ前(25〜26歳の頃?)書いた未發表作品です。表記を正字正かなにあらためた上、いろいろと書き直しました。